きのうの続き。
昔、小林秀雄の戦後の代表作、『本居宣長』について悪口を書いてやろうと思い、新潮文庫から出ている上下巻をしつこく読み込んだことがある。もともと、宣長の文章など読んだこともなかったので、自分でも要領を得ない駄文しか書けなかったのは当たり前だが、読んでみての正直な感想は、戦後の小林も宣長もぼくは嫌いではあるが、言ってることはたいへんよく分かるということ、宣長の文章を読んでいると、自分は精神的に非常に安定する面がある、ということだった。
この本のなかに、宣長の弟子たちへの返答の、次のような一節が引かれている。
「(前略)御国にて上古、かかる儒仏等の如き説をいまだきかぬ以前には、さやうのこざかしき心なき故に、ただ死ぬればよみの国へ行物とのみ思ひて、かなしむより外の心なく、これを疑う人も候はず、理屈を考る人も候はざりし也、さて其よみの国は、きたなくあしき所に候へ共、死ぬれば必ゆかねばならぬ事に候故に、この世に死ぬるほどかなしき事は候はぬ也、(後略)」
(小林秀雄『本居宣長』新潮文庫版下巻p235)
つまり、死ぬということは、ただ「悲しむより」ほかないことである、と言われている。死後の世界は「きたなくあしき」所だが、必ず「ゆかねばならぬ」場所だから、死という出来事に関して余計な思弁(儒仏などの狭義の宗教)を展開することは、こざかしい事だと非難されている。
ここで、宣長が『古事記伝』で語っているような「カミ」という言葉の汎神論的・アニミズム的な概念、そこから開かれてくる古代的な死生観そのものの意味について、考えたいわけではない。今日の目でみて、それが魅力的であることは分かっている。
ただぼくが言いたいのは、宣長が生きた江戸後期の武士が支配する社会の構造のなかで、「死」と「生」とを特別な断絶のない一続きのものだとするこのような考え方が、封建的秩序にしたがって死んでいったり、飢饉のなかで餓死していったりする人々の「生への努力」を無力化させ、生命の価値というものを見えにくくしてしまう働きを演じたのではないか、ということだ。
ここには、(もしそう断定してよければ)古代的な死生観が、ある時代の権力構造のなかで支配層のためのイデオロギーとして機能したことの、ひとつの具体例が見出せるのではないだろうか。ただ、古事記そのものや日本書紀、万葉集にさかのぼって考えても、この古代的な「カミ」の概念や死生観が、支配権力と分離して存在していた時期を見出すことは、「日本」の場合、難しいのではないか。
ともあれ、ぼくはこの死生観を、自分にとってきわめて無理のない、まるで母胎のように居心地のよいものだと感じるのである。
もうひとつの例。
思想史家の子安宣邦は、宣長の後継者にあたる存在であり、日本におけるナショナリズムの確立に多大な影響を及ぼしたとされる幕末の思想家平田篤胤の、死後の世界に対する考え方について、次のように書く。
しかし篤胤がえがく幽世についての形象は、一つの精神界として現世に対立するものとしてではなく、むしろ現世的存在に親しい世界としてあるのである。(中略)神霊と生者の情の共通性をいうその言葉のうちに読みとりうるのは、生者と神霊とが情的につながって、相互に交じりあうような世界にいるという見方であるだろう。(中略)篤胤の救済願望が幽世を「本ッ世」としてとらえながら、その幽世は精神界として現世に対立するものではなく、むしろ生前の生活圏の周辺にある、現世に親しいものとして彼にえがかれてあるのである。そのことは、篤胤の発想の基底がなにか土俗的なもののうちにあることを思わせるのである。 (子安宣邦『平田篤胤の世界』p218〜219)
時代を揺り動かした篤胤の思想の力は、「産土信仰」や「祖霊信仰」と呼ばれるような日本の農村の土俗的な信仰と死生観に、その有力な根を持っていたと、ここで子安は述べているのだ。
ぼくは、近代以後現在にまで至る日本人の心のあり方を考える場合に、この土俗的な死生観が果たしてきた役割を決して軽く見てはならないと思う。それは、たんに国家によって利用されたというだけでなく、利用が可能であるほどに深く人々の心のなかに住み着いており、またそうであるように仕組まれてもいるものだ、と思うのだ。
日本の場合それは、死が日常的な生の空間に対して、フラットで親しみやすくさえある領域としてイメージされるような、特異な死生観である。
ぼくが10代だった70年代の後半頃から、日本では「子どもの自殺」が大きな社会現象になった。これは、当時、それまで疑われることのなかったこの社会の大きな枠組みが揺らぎ始めていたことと、きっと関係していたのだろう。
多くの子どもたちが、特別な気負いのない足取りで、死の世界にふっと渡っていってしまう、そんな風にそれらの出来事は語られた。まるで日常の延長のように命が失われていくその死のあり方を思うと、既存の枠組みの崩壊に際して、上に書いたような根深い死生観がその姿を現したのではないかと、ぼくには思えるのだ。
この、死に対する特別な共有される感覚、広義の宗教的な死生観は、「死の文化」として、ある社会とそこに生きる人々の生のあり方に、決定的な影響を及ぼすことが少なくないのではないか。死をめぐる観念が、人々の心に重大な影響力を及ぼさない人間の社会があるはずがないのだ。
何より、それは現代の日本に生きるわれわれの、自分や他人の生命に対する冷淡さ、執着のなさ、あきらめ、皮肉な態度、それらを構成する大きな一因となっているのではないだろうか?
抗うべきものは、外部(グローバル化、近代)だけではないと、ぼくも思う。
この話題、多分続きます。
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