早大ビラまき逮捕事件にふれて

早稲田大学で起きた、ビラをまいていた学生が逮捕されたという事件のことは、ずっと気にはなっていたが、どう書くべきかが分からなかった。
先日、『成城トランスカレッジ!』に、同サイトの運営者であるchikiさんが、この事件についてのシンポジウムを傍聴した報告と感想を載せておられるのを読んだので、この事件と記事の内容とに関して、思うことを少し書いておきたい。


空間の私営化

この事件に関して、ぼくは大雑把な印象しか言えないのだが、最近ずっと書いてきた大阪市の公園からの野宿者の排除と共通しているものが底にあるのだろう、とは思う。
それは、公園とか大学の構内(あるいは大学そのもの)といった、これまで誰でもが出入りできるし適当に使っていいとされていた空間や場所が、急速に「私営化」されつつある、ということだ。
「私営化」というのは、カントのいう「パブリック」な場所ではない、そこを所有・運営している特定の主体(自治体、学校、あるいは国)にとって利用しやすい場所になる、ということである。


これまでの日本の社会では、「パブリック」な空間は、「誰でもが出入りできるし適当に使っていい」という、曖昧さや雑然さによって実現されてきたと思う。
これは、日本の社会というものが、そういう形でしか「社会性」を構築してこなかったという、社会政策上の特性が大きな理由になっているのだろう。
早い話、野宿者の問題に対する社会全体での取り組み、特に行政の努力が早くからもっと進められていれば、公園に多くの人たちが住むという状況は生まれなかっただろう。公園に住むこと自体が悪いかどうかということとは別に、社会政策とか社会思想の遅れが、法的な根拠の弱い状態を生活の基礎とせざるをえない人たちを生み出してきたことは、事実としてみなくてはいけないだろう。


ともかく、そういう日本的な意味での「パブリック」な空間というものが消されて、大学の構内や公園のような場所が、自治体や学校や企業にとって利用しやすい空間へと変質していく。
この「利用しやすい」という意味は、いまのところ経済的な利用、ということが強い。たとえば「世界バラ会議」をやって観光客を呼んだり、企業にとって優秀な人材を育てるための環境を整備して企業から寄付をもらったり、あるいは就職目当ての学生を多く入学させたり、といった意図だ。そのための公園にし、構内にしていく、という動き。
この背景には、「新自由主義」的というふうにいわれる、いまの国の政策の影響で、自治体や大学などが経済的に「自立」し、競争に勝ち残っていくことを考えざるをえないという大枠の事情があるのだろう。


しかし、曖昧さや雑然さを空間から取り除こうとする現在の動きには、そうした経済的な利用可能性だけで割り切れないものがある。
最近では、大阪府の「青少年健全育成条例」の実施も同じ流れを示すものだと思うが、


監視し管理しやすい空間によって社会全体を満たそうとする傾向として、この「空間の変質」をとらえることも可能だからだ。
公園から野宿者を追い出したり、大学構内からビラをまく学生を(警察の力をかりて)排除するというのは、安全性ではなく、治安が最優先される社会というものの到来を示しているだろう。
つまり、野宿する人や、ビラをまく学生が本当に危険なのではなく、その人たちに「危険」とか「違法」というレッテルを貼って排除することによって成立する透明な(監視可能な)空間を、多くの人々が好ましいものとして希求するような社会の到来、ということだ。


あてずっぽうを書くと、この社会の変容の背景にあるのは、冷戦終結以後の軍事産業をはじめとした産業界の戦略転換ではないだろうか。
冷戦終結以後の世界では、「監視」や日常的な治安の確保に、ビジネスチャンスを見出さざるをえなくなったため、日常の安全性への不安が誇張して宣伝され、人々の意識を(雑然さへの嫌悪へと)変えていった。
それだけではないだろうが、そういう要素も考えておく必要はあると思う。


ともかく、公園や大学の構内といった、あるいは盛り場とか夜の街といった、曖昧で雑然とした空間がこの社会から消えていき、全ての空間が国や行政や企業といった特定の主体の利用可能性によってだけ規定される「私営化」されたものとなる流れは、急速に強まっていると思う。
現状では、それを推進するための法整備は、すでにほぼ出来上がってしまっているので、合法的にこれに抵抗することは難しい。しかし、非合法的に抵抗することはもっと難しいだろう。
その変化の経緯については、上記のシンポジウムでの松沢呉一さんの発言が、非常に参考になると思う。

社会運動と「よい想像性」

次に、上記のシンポジウムの報告の最後にchikiさんが書いておられる「雑感など」に関して書く。
そのなかに、抗議の署名を募るホームページの形式に関連し、一般的な見解として、次のように述べられている。

内容に同意しても署名してwebで公開されると就職活動中だからちょっと嫌、というようなケースも少なくないと思います(実際何名かそういう声をヒアリングしているし)。私はそのようなケースに対して「ビビッテンジャネーゾ」と恫喝するタイプのラディカリズムには嫌悪感を抱きます(今回がそうだ、ということではないです)。「署名くらいでビビるな」と、単に覚悟の問題で済ませるのはパフォーマンスを無視しすぎ。内容が崇高であれば同意せよと迫ったり、あるいは自分のスタイルに同意せねばディスリスペクトという状態はまずく、今回の「事件」へのレスポンスは、むしろそういうものに対する違和感の表明であると思っている。だから方法は色々あってよいと思う。私のような「ヘタレ」でもね(というか、そういう「ヘタレ」に向けてメッセージを発する必要があるだろうし)。


ぼくもやはり、一般的なことしか書けない。
ぼくも「へタレ」なので、ここに書かれていることは、よく分かるつもりだ。
自分のスタイルなり行動なり心情なりに強引に同意や共感を迫ったり、『自分のスタイルに同意せねばディスリスペクト』というような態度は、行動を呼びかける側のものとしては、たしかにひどすぎる。
そういう硬直した考え方で左翼的な活動とか社会運動をやっている人も、いまだに少なからず居るだろうが、そうでない人も多いだろう。
しかし、重要なことは行動を呼びかける側がどのような意識でやっているかということよりも、「運動」一般やある特定の行動にはじめて関わった人たちに、現実に抵抗感を持たせてしまうことが多いということのほうである。多くは運動側の意図に反して、ある運動にはじめて関わって行動を要請された多くの人は、行動を暗に強制されたとか、行動を決めるときに一種の踏み絵を踏まされたと感じることが少なくない。
つまり、これはコミュニケーションの問題だと思う。
こうした問題は、社会運動に限らず、社会の色々な場面で、現在起きているはずだ。
だから以下は、社会運動のあり方に対する批判ではなく、こうしたコミュニケーションの不全がなぜ起きるかということについての、ぼくの考えである。


こういう問題が起きる大きな理由は、社会そのものの変容にともなって、社会運動がテーマに即して分散化してきていることである。
たとえば反原発なら反原発、障害者福祉なら障害者福祉というふうに、運動が社会の各分野に分散していて、それぞれのテーマの間につながりがあることは分かるし、実際複数の運動に関わっている人も多いだろうが、それらの運動を統合するひとつの場としての「社会」に働きかける、という感覚は薄れてしまった。
複数の運動に関わっている個人は、複数のテーマに同時に関わっているというだけで、「社会」と呼ばれるような幅広い領域にコミットしているということではない。言い換えれば、「解離」した状態のまま、それぞれの運動へのコミットが行われているのである。


ここで何が起きるかというと、ある運動をしている個人なり集団にとって、その運動の対象であるテーマと自己との関係が、過度に想像的になってしまうということだ。
そのテーマの切実さに関して、言語による他者への説明が不要であるように感じられてくるのだと思う。


こうなると、今回の事件のように、幅広い層に呼びかけて行動に参加してもらおうとしたときに、テーマとなっている事柄についての体験も感情も考えや意志も共有していない人が参加しているのだということが、実感として分からず、土台になる認識を交換し、意志を確認し、感情を交えるという、基本的な手続きを軽視して行動を進めようとする、ということになってしまう。


実際には、社会運動に日頃から関わっている人であっても、当該のテーマに対する認識や態度、プライオリティはさまざまであるし、運動経験のない人ならなおさらなのだから、その事柄についてよく知ってもらい、どういう考えと態度とろうとしているのかを話し合い、運動している側自身も批判や教示を得る態度でのぞんで、率直な意見交換を行う、ということが行動の前提としてなければならない。
そこの手続きをすっ飛ばしてしまう。やるべきだと分かってはいても、軽視してしまう。
これは、自分とテーマとの関係が、「言語的」という意味での社会性を失い、想像的な領域に変わってしまっているからである。


こういう、自分の想像的な領域のリアリティや共感を自明のものとして、他人にもそれを前提にした行動を強いてしまうという傾向は、社会運動に限らず、今日の社会には広く見られるものだろう。


運動としては、これがすごくまずいのは、行動を「強制された」という心証を、外からの参加者に与えてしまうことだ。
そのことは実際問題、運動の広がりを阻むというだけではなくて、警察やマスコミによって悪用され、運動が崩壊していく原因にもなりうる。
戦術的な面からも、ここは改善しないとすごくまずいのだ。


だが、社会運動がそうした想像的な領域の事柄に変わってしまったことは、社会全体の変容にしたがう不可避的なものであるし、それ自体が悪いことだというわけではない。
「よい想像性」と「わるい想像性」を仮に考えるとすれば、今日の社会運動が前者の面を伸ばして、これまでの左翼運動が構想してきたものとは異なる、水準の高い社会変革の方法を実現していく可能性はある。
というか、そうするしかない。


そのためにも、自分が取り組んでいるテーマに関して経験している想像的な真実さを、一人でも多くの他人と分かち合っていくための努力の継続が不可欠なはずだ。
それには、自分(たち)と他人との間の、言語によるコミュニケーションの手続き、何を体験し何を感じ、どのようにしようと思っているかを語り合い確認するという行為が、もっとも重要となる。
それは、言語によって、自己の想像的な体験を社会のなかに解放し、それによって逆に社会を「よい想像性」のなかに解放する、そのための道筋となるだろう。


こういう地道なコミュニケーションの手続きの重視の他に、社会運動が新しい形の「社会性」を作り上げていく方法は、さし当たって見当たらないと思う。