『<野宿者襲撃>論』後編

「野宿者襲撃」論

「野宿者襲撃」論


本書では、(おもに少年たちによる)野宿者に対する「襲撃」について、二つの側面から語られているといえる。
ひとつは、「襲撃」は、われわれの社会の野宿者に対する視線、もっとひろげて言えば野宿者を生み出していながらその事実から目をそむけ続けようとする社会のあり方全体の投影(具体化)にほかならない、ということである。
昨日のエントリーにも書いたように、本書の前編では、おもにこちらの側面から少年たちによる「襲撃」という行動が分析され語られていたと思う。
もうひとつの側面は、「襲撃」をおこなっている少年や若者たちと、「襲撃」される野宿者の人たちとは、同じ社会構造が生みだした弱者どうしである、という観点だ。
この観点から見るなら、「襲撃」はこの弱者どうしの、まさに「最悪の出会い」ということになる。

だが、彼らが「戦う」べきだったのは、野宿者ではなく別のものだったのではないかという思いは消えない。静岡でのブラジル人青年たちの襲撃についても言えるが、「日本社会の中で居場所がない」という「共通する問題」を持つ者どうし、いわば、最も近いはずの者どうしが、どうして「襲撃」という最悪の出会いをしなければならないのかということが解せないのだ。(p97)


本書の後編では、こうした観点から、この弱者どうしの「出会い」と「連帯」の可能性が模索されることになる。

存在確認と連帯

後編で分析されるのは、70年代以降に日本社会でおきた、国家や会社や家族といった共同体の解体(「空洞化」)によって、「存在の承認」をえることができない少年たちが、いわば社会のなかに投げ出されるようにして急増したという事態であり、それが少年たちによる「襲撃」や、少女たちのさまざまな自傷的行動(リストカット摂食障害など)といった、自他への破壊的な暴力による自己の「存在確認」、「存在の承認」への衝動を生み出す原因になっているということである。
また「襲撃」の場合、おもに集団でおこなわれることが多いということから、そこにはやはり社会の変容のなかで満たされることがなくなった「連帯」の感覚への渇望を見出すこともできるのではないか、と考えられている。
すでに前編でも、こう書かれていた。

つまり、そこでは学校の中などでは決して得られないような性質の共犯者的な連帯感(コミュニケーション)が働いているように見える。そこでは、他者への攻撃による「生」「現実」への希求と、攻撃での一体的な「連帯」とが相乗効果をもって彼らを野宿者襲撃へと突き動かしているように見えるのである。(p59)


この分析は、自分たちが属する共同体にとって「外部」とみなされる存在に、現在の若者たちが向ける攻撃性の集団的な高揚について考える場合、重要な示唆を与えるものだと思う。そして、本書の前編でも分析されていたように、現代の社会では、「われわれの共同体」と人々がかんがえる範囲は、どんどん狭小になっていきつつある。


以上のことから、二つの問題がみえてくる。
ひとつは、自己の「存在確認」が、ここでは自他への否定的な暴力の行使によっておこなわれるということ、より正確にいえば、自分が生きていることの価値を否定してくるような社会の支配的な価値観に沿う(投影する)ような形で、その行使の対象や仕方が選ばれるということ。
もうひとつは、目指されている「連帯」の実感が、ここでは同質的な共同体内部でのそれにとどまっている、ということである。


「生きジゴク」とイス取りゲーム

この二つの問題を、著者は「襲撃」事件の加害者となった少年たちが、事件を起こすまでに学校などで経験してきた「いじめ」などの「生きジゴク」ともいうべき過酷な状況(上に述べた「共同体社会の空洞化」が、それをもたらしていると考えられている)と重ねあわせてかんがえる。
「いじめ」も「襲撃」も同様に、共同体の外に居る弱者への暴力による「力」の確認および誇示と、同質的な共同体(仲間たち)への過剰適応という本質をもっている。
そして、このような論理は、学校を含めた社会全体の競争至上主義的な考え(本書のなかで何度も語られている「イス取りゲーム」)の枠内にあるものなのだ。

ここには、自分を否定し他者を否定することでしか自分の存在価値を守る(生き延びる)ことができないという極限的な状態がある。(p150)

(前略)存在の承認がこのような「イス取りゲーム」によって得られる必要はないが、彼らはそれ以外の方法がまったく思いつけない、いわばゼロくんの言う「そんな考え方があるなんて、考えもしなかった状態」に陥っている。
(中略)自分の存在が承認されないのは、当然、勝者よりも敗者の側だが、存在確認が消耗的な勝ち負けの争いによって行われている限り、その勝者でさえ「自分の存在は必要とされない」という息苦しさや不安から逃れられないのかもしれない。彼らの行動の背景には、「自分は不必要な存在なのではないか」(「駆除」「掃除」される)という不安が存在する。(p151)

つまり、勝者になろうと敗者になろうと満たされることのない、「消耗的な勝ち負けの争い」、「イス取りゲーム」による「自己確認」の虚しさが、ここで描きだされている。
この若者たちは、自分が生きていることの価値を根本的には承認しない(否定する)「イス取りゲーム」の価値観のなかでしか、「自己確認」を試みることが「思いつけない」状態におちいっているのである。
こうした社会全体がもつ大きな支配的な考え方にとらわれたなかで、若者たちは「生の実感=存在確認」と「連帯」とを求めて、弱者への「襲撃」をおこなう。

おそらくそれは、彼(女)たちが得られなかった「生の実感=存在確認」と「他者との連帯」の最悪の形の代替物なのである。では、自分と他者とを否定することでしか生き延びられないという「生きジゴク」はどのように変更することができるだろうか。そして、得られなかった「連帯」「生の実感」を、われわれはこの社会の中でどのように見出すことができるのだろうか。(p151〜152)

隣人

ここで著者が見出そうとするその道筋は、「隣人」という存在との出会いによってこそ開示されるものだ。
それは、社会構造的にいえば、こういうことである。

この意味で、「ホームレスが隣人になる」ことは、従来の世界の枠組みの機能失調の「生ける具現」であり、その意味で高度に(そしてネガティブに)公的な問題と言うべきものだった。言いかえれば、野宿者問題に関わることは、実はわれわれの従来の社会の前提だった「原理」を考え直すことに直結してしまう。おそらく、多くの人が野宿者問題を直視せず回避する理由の一つはそこにある。多くの人は、自分の街に第三世界が広がるというポスト冷戦期の普遍的問題をそれとして受けとめようとせず、「ホームレスになるのは、身勝手でおかしな人間だけだ」という野宿者「自業自得論=自己責任論」で理解してしまおうとする。(p112)


野宿者の存在は、現在の世界の普遍的な問題の「生ける具現」であり、自分たち自身がおかれている社会のそうした現実、自分たちの生がそこに閉じ込められている過酷な牢獄のようなシステムを直視することを恐れて、われわれは「隣人」としての野宿者の存在を見てみぬふりをしているのだ。
共同体の外にあるものとして、われわれが共感することを拒む「隣人」との出会いによってこそ、われわれは自分が生きている「現実」のほんとうの姿を知ることができる。
著者のいう「隣人」とは、キリスト教的な、共同体の外部で出会う他者、「現実」そのものの「生ける具現」である他者のことであり、「出会い」によってわれわれ自身が生きている「現実」のあり方を教えてくれ、その「現実」のなかにわれわれを投げ返してくれる「隣人」として、著者は野宿者の存在を見ているのだ。

(前略)特に一九九〇年代以降、日本社会はそれまで見なくてすませてきた外部に「ホームレスが隣人になる」という形で直面するようになった。そのとき、日本社会の「原理」の限界、言いかえればポスト冷戦期の「普遍」的問題を通して、「社会と自己との関係」づけの新たな形が問われるのである。(p167〜168)


そうした「隣人」との「出会い」をとおして問われるようになる「社会と自己との関係づけ」とはどのようなものか。
それは無論、「イス取りゲーム」ではない、著者の「野宿者問題の授業」に感想文を寄せた生徒の言葉を借りれば、お互いがイスを譲りあってしまうような「別のルール」をもつ社会へと、現状の社会を変えていく行動をとることである。
それはまた、「ゲーテッド・コミュニティ」に帰結するような、それぞれが狭い同質性のなかに閉じこもって他者との共感可能性をそぎ落としていく「島宇宙」化した社会のあり方を変えていくこと、つまり異質なものたちによる社会性を回復しようとする行動でもあるだろう。


たぶん、この後者の問題(「島宇宙」化の打破)をかんがえるにあたって、著者の「隣人」という概念は、とりわけ重要である。
聖書の「善きサマリア人の譬え」を引いて語られる著者の「隣人」についての考えは、実存的な問題としては、それが「フロイトラカン」の『「人が世界にやってくる前」の次元』(p162)という概念と重ねて語られていることで、生の偶有性ということに接続されているというのが、ぼくの考えだ。
それは、「人が世界にやってくる前」の次元ということは、生の偶有性の意識、つまり「自分はなぜこの自分であって、他の存在ではないのか」という問いかけと関係しているはずだからである。
「隣人」とは、この生の偶有性を自己に思い当たらせることによって、社会(現実)のなかへと自己を突き戻してくれる存在ではないだろうか。

「その野宿者の隣人は誰か」という問いへの答えとして突然「私」が見出される。(p
187)


と書かれているのは、そのことだろう。
自分がおかれた状況(共同体の中での生)への偶有性の意識をもつことによって、人は「ゲーテッド・コミュニティ」の「壁」を乗り越えて他者へと共感していくのだと思う。

「連帯と共闘」についての感想

「襲撃」をおこなうような若者たちについて言えば、弱者や自己自身の心身の破壊へと向けられてきたその攻撃性や暴力性を、異質な「隣人」との出会いによってえられる自分の「現実」の状況への自覚から生じる「正しい正当な怒り」によって、抑圧をおしつけてくる者(社会のあり方を決めている者たち)へと向けることで、ほんものの生の実感と連帯とを獲得できるはずだ、と著者はかんがえる。

では、彼らが野宿者襲撃ではなく、戦うべき相手を見出し、社会を変革する「世直し」を行なうとき、それはどういうものになるだろうか。それは、襲撃とは逆の「他者との連帯」と「生の限界」の現実化、「世直し」と言った少年たちにならうなら、「革命」となるのではないだろうか。(p170)


ここで具体的にその実例として回想されるのが、1990年に起きた西成での暴動、そこでの日雇い労働者たちと若者たちという異質な者どうしの、偶発的な「共闘」のことである。
このときの体験は、著者のその後の行動を決めるような強烈な原体験のようなものになっていることが書かれている。


ところでこのことに関して、思うことがある。
それは「連帯と共闘」ということと、「別のルール」とは、滅多に重なり合わないはずだ、ということである。むしろ、「連帯と共闘」は、たいていは「既存のルール」に落ち着くのではないだろうか。
この本での記述を読むと、90年の暴動が若者と野宿者との奇跡的な出会いをもたらしたのは、それが偶発的な共闘だったからであり、また一瞬のものだったからだとも思える。
テレビのニュースなどで騒ぎの様子を見て、「これは自分の問題だ」と直観してやってきて投石などに加わった若者たちの行動は、あらかじめ約束されたものではなく、誰にも予期できなかった偶発的なもの(出会い)だろう。この偶然性こそが、「別のルール」を保証するのではないかと思う。
「連帯と共闘」は、この偶然性を尊重しなくなれば、ただちに「既存のルール」、つまり「イス取りゲーム」と、同質的な共同体への「過剰適応」(あるいは感情の転移)のなかにおちこんでしまうだろう。

そのほか、思ったこと

本書を読みながら思った、もうひとつのことは、「野宿者は怠け者だ」という考えが、ひどい偏見であることは事実だとしても、自分が積極的に生きることを拒否する(自己否定)という意味で、あえて仕事をしなくなり零落して死んでいく人というのは、少なからずいるはずだということであり、そしてそういう人たちも現状の社会の構造によってそうなることを強いられた「失業者」や「自殺(自傷)者」と考えるべきだろう、ということだ。
これは、いまの社会での「労働」ということのあり方にも関係するだろう。そういう現状の仕組みを変えていくことが、もっとも大切なのだと思う。


この本には、ぼく自身、自分の自己否定的な生き方をとらえなおすうえで、大きな示唆を与えてもらったと思う。


最後に、この本でもっとも感心させられたのは、著者が各学校で続けている「野宿者問題の授業」を受けたり、釜ヶ崎に研修にやってきた生徒たちの感想文を丁寧に読みこみ、そこから自分の考えをひろげ、深めていこうとする著者の思考のあり方、態度のようなものである。
たとえば、研修をとおして「普段何気なく暮らしているこの社会に、落ちたら出られないような穴がたくさん開いていることにはじめて気づいた」という、ある生徒の文章に、

ただ、彼女が言う「この社会には穴がたくさん開いている」と言う「穴」は、従来の「社会」の原理の矛盾と限界であると同時に、彼女によって見出された別の社会への「通路」であるのかもしれない。(p191)


と応答する、著者の受け取り方の深さのようなものには、感嘆させられる。
それは、どこで出会っているか分からない「隣人」の言葉を聞き逃すまいとする緊張した精神と、若者たちへの信頼の強さを示しているのだろう。