続・『蟻の兵隊』

先日、映画『蟻の兵隊』について記事を書いたが、その後他の方が書かれたこの映画の感想を読む機会があったが、素晴らしい内容だった。
自分の感じたことと、読む人に知ってもらいたい情報が伝わるように、考え抜かれた文章だと思う。
この文章を読んで、ぼくの書いたものは、即興的に書いた印象の羅列にすぎず、表現としてなっていないものだと痛感した。考えをまとめて書くには、ぼくにはあまりにも想像の及ばぬ部分の大きい映画であったので、印象だけを書き連ねることに逃げたのだ。
そこで、前回の自分のエントリーの不十分であった部分を補うために、もう一度この映画について記事を書くことにした。


ぼくの場合にも、この映画について一番先に出てくる感想は、「複雑な映画」であるということだ。
その大きな理由は、「日本軍山西省残留問題」という事柄の性格にあるのだと思う。
この映画の冒頭で、主人公の奥村さんは、靖国神社に対する批判を強い言葉で語り、自分が従軍した戦争を「侵略戦争」だったと断言する。
だから、この人は戦争を批判し、自分が過去に行った行為を深く悔いて、被害者に謝罪したいと思っている人なのだと、ぼくはなんとなく思っていた。
だが、中国に行ってからの奥村さんを見ていると、そう単純なことではないのが分かってくる。元残留兵であり、国からの正当な補償を求める裁判の原告の一人でもある奥村さんにとって、残留してからの内戦時に、自分が日本兵という自覚や使命感をもって戦っていたということは、どうしても強調せねばならない事実である。
かつて戦った共産党軍の兵士だった中国の人に、奥村さんがそのことを強調する場面を見て、ぼくははじめて、奥村さんのその意識の複雑さに触れた。
この人の戦争への思いは、いや、この人にとっての戦争は、ぼくにはとても想像できないほど重く複雑なのだ。


奥村さんは、さまざまな気持ちのなかで引き裂かれているように見える。
その引き裂かれていること、複雑であることをもたらしたものこそ、まさに戦争なのだろうが、大事なことは、そうした苦悩や複雑さが、奥村さんの「事実」を知り、明らかにしようとする熱情を弱めるのではなく、逆にその持続の源のようになっているということだ。
侵略戦争靖国に対する強い明確な批判も、そういう苦悩や複雑さに向き合う奥村さんの態度から生じているものに思える。
前回のエントリーを書いた時点では、このことが分かっていなかったように思う。


ぼくが前回のエントリーで書いた、

そこに行くまで、奥村さんは次のように語る。
捕らわれた中国人たちを銃剣で刺し殺す訓練を受けていたとき、自分は恐ろしさのあまり、その場の状況をほとんど見ることができなかった。だから、現地に行き、当時を知る人に会って、その時どんな状況であったのかを、教えて欲しいのだ。
これは、奇妙な言葉に聞こえる。彼がその現場にいて、その行為を行っていた本人であるのに、そのとき何が起こっていたのかを誰かに教えてもらうために、自分はそこに行くのだと、奥村さんは言うのである。


という文章は、戦争というものが、人から「自分個人の体験」や「記憶」というものを奪い去ってしまうということ、そうでなければ戦争という巨大な機械(映画のなかに出てくる言葉)を動かしていけないという事実を示すものだと思う。
このときに奪われたものを取り戻そうとする思いが、奥村さんの行動を生み出し支えているといえるのではないか。
つまり、奥村さんにとって、この剥奪、欠落は、今も続いている事実なのであり、それを克服するためには、事実を明らかにし、自分にとっての戦争というものの正体を知ることによるしかない、ということなのではないか。


奥村さんが、かつて自分が処刑する可能性のあった中国兵の息子に向って、まるで憲兵のような鋭い質問を浴びせるとき、この剥奪や欠落の淵が口を開け、奥村さんのなかに今も潜んで彼を苦しめている「戦争」という機械が姿をあらわしたのだとも想像できる。
映画のなかで奥村さんが、「私のなかの軍人が出てきた」というようなことを言うのは、その意味だと思う。
戦争によって自分に背負わされた、この剥奪や欠落や、分裂や苦悩という重荷から逃れ、失われ続けている自分の人生を奪い返すために、奥村さんの今のたたかいはある。


奥村さんが、小野田寛郎にぶつけた言葉は、同じ「戦争」という重荷を、この相手が背負っていることを強く意識したうえでのものだったのではないかと、ぼくは想像したのだ。
そしてその背負っているものの重さが、あの小野田さんの一瞬の「間」のなかに示されていたのではないか。
だとすれば、その言葉を聞いたあの奥村さんの、不思議に静かな目の光は、深い意味をもっているように思えてくる。


奥村さんの中国への旅は、たしかに大きな何かを奥村さんにもたらしたように思えるが、そうだったとしても、それは奥村さんの行動を鈍らせるものではない。
むしろ、その現実とのたたかいは、今までよりも奥深い次元、ご自分の身体に近いところへと移行したのではないか。映画を見ていて、そんな印象さえ持った。


紹介した方の文章に書かれていたとおり、これは戦争という出来事が、それが終わったあともいかに人にのしかかり、苦しめ続けるかを、残酷なほどに描き出した映画だと思う。
だがまた、自分の人生を剥奪され、欠落を抱え込まされているのは、戦争を体験した人たちだけでなく、ぼくたちが現在直面している体験でもあるかもしれない。
奥村さんのように、この理不尽な現実と向き合い、人間らしくあるための怒りを燃やし続けることを、この映画を見た人たちは迫られているのではないだろうか。
「巨大な機械」に、完全に呑み込まれてしまう前に。