『ガザ・希望のメッセージ』から

以下は、2月1日に、大阪で朗読劇『ガザ・希望のメッセージ』を見た感想を、フェイスブックに書いたもの。そのまま転載します。
最後に書いたことだが、政府がこの先どれほど強権を使って止めようとしても、こういう人達の流れは止まらないだろうと思う。いま中東で起きている問題は、根本的には、われわれの社会の問題なのだから。



以前紹介した、朗読劇『ガザ・希望のメッセージ』、昼の部を観劇してきました。
http://readers-without-borders.org/


僕が特に強い印象を受け、圧倒されるような思いになったのは、2003年に占領地でイスラエル軍のブルドーザーに轢かれて、23歳で亡くなったアメリカ人の平和活動家、レイチェル・コリーさんが母親にあてて書いたメールの朗読でした。
彼女は、占領地の状況がどういうものであるか、アメリカに居るときに知識としては知っていたが、実際に現地で暮らし始め、その現実を実際に体験して、強い怒りを覚えたという。
それならば、この想像を絶するような暴力の中で日常を送っている占領地の子どもたちが、逆の体験をしたならば、どう感じるだろうかと、彼女は考えます。
占領地の子どもたちは、他の国の子どもたちは親を軍隊に殺されたり、突然家を破壊されたり、理由もなく長期間刑務所に閉じこめられたりする心配をせずに暮らしているのだということを、知識としては知っている。けれども、かりにアメリカに来て実際にその現実を体験し、自分たちにとっての「当たり前」の日常との埋めようのない隔たりを実感した時に、はたしてどんな感情をもつだろうかと考えて、彼女は愕然とする。
これは、その感情からどういう行為が生じてくるかという問題ではなく、それ以前に、その感情(心情)を想像した時に愕然とした、ということだと思うのです。
また、亡くなる直前に母親に書いたメールの中では、自分がこの地にやってきて抱いた最も強い思いは、「裏切られた」という気持ちだったと書いています。自分の国やその同盟国である他国が、占領地の人たちを抑圧し虐殺しているというような世界は、自分が生れてくるときに望んだ世界ではない。その思いを「裏切られた」という言葉で表現している。
その裏切られた世界を、自分の生の中で本来望んでいた姿のものへと取り戻したい。
その思いが、レイチェルさんを占領地に引き留めたのだったろうと思います。


また、この朗読劇全体を通じて思ったのは、次のようなことです。
例えば、イスラエルによる残虐行為を非難する場合にも、私たちはともすれば、そのイスラエルという対象を絶対悪のように見なす(悪魔化する)ことで、自分の社会から切り離してしまう。そして、自分の社会(それは国である場合も、市民社会である場合もありますが)の正当さや倫理性を証明するために、この対象を批判するということをやる。
こういう操作は、間違っているということです。レイチェルさんのような人は、自分の属する社会(つまり自分自身)と、目の前の悪と思われる対象とが、どこかでつながっていることを自覚していた。それは、この対象を、外側からだけ批判することは出来ない、ということです。それは倫理主義とは、似ているけれども別のものです。というのは、自己や自己の社会の倫理的な正当性の主張が目的ではないからです。
おそらく、この自覚が、彼女や彼女のような人たちの行動の底にある。ただ批判するのではなく、不当な現実を変える為に何ができるかということを自分自身に鋭く問い(その答えが間違っている場合もあるでしょうが)、それを実践する姿勢。私たちは、彼女たちの行動についてさまざまに論じる前に、そうした行動の根底にあるその姿勢に対して敬意をもち、学ぶべきであると思う。


劇が終わった後、演出にあたった岡真理さんが、この日の朝にその死が報道された後藤さんのことを述べられ、さらにそこから、小泉政権時代にイラク武装した人たちに拘束されて殺害された香田証生さんのことを話されました。
時報道では香田さんは、不注意な旅行者のように語られ、いわゆる「自己責任」論によって処理されていたわけですが、岡さんも、それを鵜呑みにしていた。でも、ある時、香田さんのことをよく知る人たちが作ったサイトを通して、実際には香田さんはたいへん熱心なクリスチャンであり、イラクの状況に対する深い思いから、あえてその地に足を踏み入れたのだということを知るのです。
岡さんがこの話をされたのは、さまざまな思いで国境を越えたり、不当な現実を変える為に行動を起こそうとする若者たちの心情に、その個々の行動の是非を論じる以前に、まず深く思いを寄せ、自分たち自身を問い直すことへとつなげる態度が、いま最も大事ではないかということを、伝えたかったからではないかと思います。