社会的な力の解除について

こちらのエントリーを読んで考えたこと。

http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20060327/p1

僕らは今まさに他者を見殺しにしながら、毎日たのしく暮らしてる。この問いを問うのがおかしいとは言わないけれども、今・ここでまさに見殺しにしていることそのものも、忘れてはならない。


これはたしかに、この通りだと思う。アフリカにしてもアジアにしても中東にしても、世界中で膨大な数の人たちが死んで行くのを見殺しにしているというのが、ぼくたちの存在のあり方の一面だろう。


重要な問題のひとつは、「見殺しにしている」というそのことが、ぼくたちの生活の本質を構成しているのではないかということだ。もしそうだとすれば、自分たちが生きている社会システムを根本的に変える以外に、「見殺しにしない」方法はない、ということになる。
実際、革命を志す人はそう考える。だが現実には、革命や革命によってもたらされた社会も同様に、多くの人を殺してきた。ただし、「同様に」であって、「より多く」とはいえない。なぜなら、共産主義全体主義が、ぼくたちが生きている社会システムの一部でないとは断言できないからだ。


それはともかく、もっと根本的な意味で、「他者を見殺しにすること」がぼくたちが生きることの基本的なあり方なのではないかという感じが、ぼくにはある。
これは、何らかの形で他者(人間だけではない)を殺さなくては生きていけないという意味だけでなく、基本的に一人の人間が責任を持てる範囲は限られている、ということがある。


この範囲を決定するのは、基本的には身体性だろう。
ある作家がどこかで書いていたが、自分の身体の近く、目の前で現実に死んでいく人に対して感じる「助けよう」という気持ちと、テレビの映像などを見て感じる「助けよう」という気持ちには、どこか決定的に違うところがある。その「違い」を、想像力によって埋められるという考えは、身体というものが持つ重要性を見落としていると、ぼくも思う。


これは、映像や情報によってのみ生じているように見える感情(共感)や意志が、偽物だということではない。というのは、ある情報への対し方が身体的であるかどうかは、他人が一概に決められない面があると思うからだ。一片の映像に過ぎないものが、なにかの理由から、あるいは理由もなく、身体を直接に襲うということが絶対にないとは、ぼくには断言できない。


それに留意したうえで言えば、認識や観念や想像から発する共感と、身体から発する共感とは、やはり違うはずなのだ。


だから本当に重要なのは、たとえば目の前で溺れている人や凍死しかかっている人を、助けるかどうか、ということだろう。
つまり、生きていくうえで原則として「他者を見殺しにする」ことがやむをえないとしても、見殺しにしてはならないという義務(強制的命令)が生じる場合があると考えるべきではないか、そうとすればそれはこうした身体の具体性に関わる経験と結びつけて考えられるべきではないか、ということである。
ぼくの考えは、そこには倫理的な義務はなにもないはずだ、ということだ。人は他人を見殺しにしてもかまわない。そう思う。


だが、ぼくのこの考えは、いったい誰に、あるいは何に属しているのだろうか。
ぼくが関心を持つのは、むしろそのことなのだ。
クリプキは、『ウィトゲンシュタインのパラドックス』のなかで、こう書いている。

ウィトゲンシュタインが『探究』の種々の考察において意味していると思われることによると、私が痛みにもだえている人に対して示す態度は、原初的であり、かつ、私自身の痛みの経験、およびそれに随伴するところの、彼は「私が経験したものと同じものを経験している」のだ、という信念、とは全く独立な起源を有しているのである。(黒崎宏訳 産業図書 p267)


人が目の前の他者の苦しみを見て、その人を(たとえば)助けようとすることは、同一化としての共感や認識や想像力とは本来関係がなく、動物が仲間の傷口をなめて癒そうとするのと同じ「原初的」な行為である。
ウィトゲンシュタインの考えは、そういうものだったのだろう。
マルコムが書いたウィトゲンシュタインについての回想を読むと、彼が大きな人間的共感に満ちた人物だったことがうかがえる。だが彼の共感は、共同体(同一)的なものではなくて、「原初的」なものだった、というべきだろう。
ここでウィトゲンシュタインが「原初的」と考えたものが、ぼくにはまったく「原初的」には感じられない、という違いが生じているわけだ。
この「原初的」(遡行不可能)な行為や感情が、ぼくには欠落しているようだということについて、どう考えたらいいだろう。


ここで思い出すのは、今年の1月17日に書かれた、こちらのエントリーのことである。

http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20060117#p2

震災時に重要だったのは、「飢える」ことと同時に、「日常が壊れた」ことだった。


id:ueyamakzkさんが震災のときに体験された、「日常が壊れる」という体験は、生の「原初的」なものを覆っている社会の枠組みが、そのときには崩れた、ということではないだろうか。
もちろん、ぼくと違って、ueyamakzkさんはもともとこうした感情に身を開いておられる方だと想像するが、それにしても普段は他者と自分との関係を覆い遮断しようとする社会的な力が働いていて、それはもちろん誰にとってもそれぞれの仕方で働いているものだろうが、ueyamakzkさんの場合には特別にその力の働きに敏感であるため、周囲の人々との関係が困難なものになっていた、ということではないか。
震災のときの出来事というのは、その力の働きを一時期「解除」させるようなものだったんじゃないか、と思う。


ぼくの場合には、この「原初的」なものを抑圧する社会的な力が、十分に解除されていないのだ。
人が他人を命を賭してでも助けるかどうかということは、認識の問題でも倫理の問題でも、感情の問題ですらない。それは、それ以上遡行できないような生と行動の「原初的」なものに関わるが、あえて言うなら、やはり社会的な(あるいはむしろ脱社会的な)問題だと言うべきだろう。