「ひかりごけ」・文明・餓死・抵抗

武田泰淳ひかりごけ』。


この小説の主題は重い。北海道の羅臼というところで、戦争の末期に起きたという「人肉食」の事件を扱ったものである。厳冬期、軍の補給部隊に属する一隻の船が羅臼近くの岬で難破し、数人の船員たちが周囲から隔絶された小屋のなかで孤立する。食料がやがて底をつき、船長であった人物が他の乗組員の肉を食べて生き残ったという事件である。
いま「重い」と書いたが、「食人」というのはなんとも実感の湧きにくい主題だ。人間が人間の肉を食べることは、人間文化にとって根本的なタブーであるとされる。フロイトもたしかそう言っていた。ぼくももちろん食べたことはないが、ぎりぎりの状況になったときに本当に食べられないものかどうか、分からない。
この点がまず気にかかる。


この小説では、作者は「人間を食べることはタブーだ」という文化のかんがえ方そのものに疑問を投げかけ、そういう「文化」というものこそがもっとも「野蛮」で「残虐」ではないか、という視点を提示しているようにおもう。
つまり、「文化」の否定である。北海道の歴史だけを考えても、「文明」の名のもとに人間は、多くの殺戮と破壊を行ってきたのである。先日書いたような「中国体験」、そして敗戦の体験を経た後、北大助教授時代に武田泰淳は、そのことをかんがえざるをえなかった。そのいきさつの一端も、この小説のなかで触れられているとおもう。
この小説では、作者は、日本人であり、「文明の人」である自分こそが「食人」者だという意識を表明している。この小説が北海道を舞台としていること、特に羅臼という『国境』(この「文明的」な概念を、小説の語り手は嘲笑する)の地を舞台にしていることは、象徴的でもある。


この作品の特に面白い点は、仲間の肉を食べた船長を、「悪」として断罪してはいない点である。むしろ、彼を裁判で裁こうとする「文明的」な人たち(戦争をしている国民でもある)こそが残虐な「人食い」の連中ではないか、という視点が明瞭なのだが、この作品の解釈が一筋縄でいかないのもこの点である。
日本人であり、「文明人」である自分自身を「肉食獣」と位置づける泰淳の感覚は、先日引用したこの作品の一節に見事に提示されている。
しかしでは、人を食べてまで生き残ることが悪かというと、そうではない。むしろあえてその「文明」のタブーを犯しても生き残る意志こそが真実であり尊い、という価値観を泰淳は示している。この点が面白い*1


はじめに書いた、「自分は人の肉を本当に食べられないか」というぼくの疑問も、どうやらこの辺に関係しているようだ。
この作品は、ぼくにとっては「食人」の小説というより、「餓死」を扱った小説として関心がある。難破船の乗組員たちは、食べ物がそこをつき衰弱していくぎりぎりの状況下で、仲間の肉を食べるという選択をする。
もし自分ならどうするか、とかんがえてみる。論理的には、人の肉は食べられるし、食べるべきであるとさえ思う。だが、本当に食べるか?
問題は、何らかの心理的・文化的な圧力に打ち勝ってまで、いき続けようとする強い意志が、そのとき自分にあるか、ということなのだ。そうまでして生き延びても、数日後その肉さえも尽きれば、やはり餓死する可能性は高い。それなら、そんな「闘い」は放棄して、ずるずる餓死していく道を選ぶのではないか。
こうかんがえると、「人を食べる」とは、「抵抗」の問題でもある。つまり、「ずるずる死んでしまわないこと」を選択する、いわば脱文明的な生への強い意志、それは全体主義に呑み込まれない本物の倫理性といえるのではないか。
この小説の根底には、そういう政治的な思索があるような気がする。

武田泰淳 (ちくま日本文学全集)

武田泰淳 (ちくま日本文学全集)

*1:この作品の屈折した構成に関しては、文芸評論家の鎌田哲哉氏が「知里真志保の闘争」という論文のなかで詳しく論じているらしいが、未読です。