『「愛」のかたち』

最近、優生学関連の本を読んでいて、そのなかに戦後日本で「優生保護法」という法律が作られることになった経緯が書かれている箇所があったのだが、読みながら武田泰淳の小説『「愛」のかたち』の一節を思い出した。
なぜその箇所を思い出したのかは分からない。
これまで読んだ、日本のこの時代の小説のなかで、妊娠とか胎児とか堕胎ということについて、もっとも印象的であったのが、この小説であり、その一文だったということじゃないかと思う。

この小説の発表は1948年12月となっているので、ちょうど優生保護法が施行された年ということになる。
この小説は、主人公の「光雄」が経験する知人の妻である女性をめぐる複雑な恋愛関係を描いたもの(実体験をもとにしているとされている)で、以下の部分は、その女性が自分の子どもを(思いがけなく)妊娠したということを光雄が知らされる場面である。
この直後、女性はこの子どもを病院で中絶する。

(前略)重苦しい不安におおいかくされた彼の内心に、自分の肉体が女に最後の結果をあたええたという、充実した感覚、ごくわずかであるが、勇気に似たものが湧きあがった。それと同時に、一つの生命が生まれいずることの簡単さ、たとえ男と女とが、どのような感覚、どのような感情にあっても、それと関係なく生れいずることのやるせないほどの動かしがたさ、地球の表面に空気が層をなして、どんよりたまっている、まるでそのような、ありのままの何でもなさが、鈍く、重く全身をしめつけるのを感じた。(集英社 日本文学全集 武田泰淳集 p16)


むかし読んだときも分からなかったが、今読んでもよく分からない文章だ。
最初のセンテンスについては、こういう感じ方をする人もいるのだろうな、ということしかいえない。自分がそう告げられたとき、どう感じるかは、経験がないことだし分からない。
ただ、一段目と二段目がセットになっている、という書き方はたいへん正直である気がする。こうした場合、二段目に書かれた重苦しい感じがあり、同時に一段目のような感覚があることを否定できず、というのは、なるほどなあと思う。
いずれにせよ、「子どもが出来た喜び」という純粋な感情を、こうした場合には感じないのではないかと思う。喜びと呼べるものがあるにせよ、それはたしかに「ごくわずか」であり、上に述べられてるようなひどく複雑な「社会的」とも呼べる感情だろう。


となると、(生物学的に)親になる人にとって、「命が生れる」ということの、第一義的な意味はなんなのか?つまり、たんに「命が生じる」という事実性(上に的確に書かれているような)があり、そのなかで「私」や周囲の人間にとって歓迎できるケースとそうでないケースがある。そう言えるんじゃないかと思う。
いわば受胎の作用因である人(親)にとって、受胎自体が無条件に「喜ばしいこと」というわけではない。


はじめこの文を読んだときには、ぼくは、「子ども」の位置に立って読んでいたと思う。つまり、「誕生は、かならず祝福される出来事であるわけではない」という真実が、ここから読み取れる、と感じたわけである。
それは納得のいかないような、取り残されるような、嫌な読後感であった。


だが言うまでもなく、以上のことは、ある生命の誕生が「歓迎する」べきものであるか否か、それが喜ばしいものであるか否かを決める権利が、ある人たち(親)に特権的・排他的に属していると考えるときにのみ、言えることである。
むしろ現実には、人が生れて生きるということから、「親」は(ある意味で)排除されるしかない仕組みになってるのではないかと思う。そうならなければ、その生れてきた人の生命が、この世において十分な「歓迎」を受けることは出来ないのではないだろうか。
ここで「親」という語を、「国」とか別の共同体の名で置き換えても同じだろう。