『秋風秋雨人を愁殺す』その1 恥と革命

春近し



武田泰淳作『秋風秋雨人を愁殺す』


以前書いたが、この小説の単行本を二十年以上前、東京の西巣鴨という所に下宿していたころ、古本屋で買った。雪の非常に多い冬のことで、東京でも何度も積もった。本は、読みかけたがどうも面白くないので、ほとんど読まないままに結局手放してしまった。
それが今回読みとおしてみたところ、すごく面白かった。読ませるということにおいて、戦後に書かれた歴史を題材にした読み物としては、ぼくの知るなかでは坂口安吾の小説『二流の人』と双璧ではないか。そんなことを思うぐらい引き込まれて読んだ。


この作品は、1907年(明治40年)に、紹興という町で処刑された中国の革命家の女性、秋瑾(しゅうきん)という人の伝記のようなものである。実際、副題は「秋瑾女士伝」となっている。
紹興というと、あの紹興酒紹興だ。中国の浙江省という地方にある。秋瑾はこの土地の生まれではないが、深いゆかりのある場所であり、この町で革命行動を起こそうとして捕らえられ当時の清国の当局により処刑されたのである。作品は、その経緯を詳しく描いている。
また、彼女に限らず、当時の中国の革命家の多くがそうだが、日本に留学し、「留日」時代に重要な活動を行ったり、組織やコネクションを作ったりしている。その詳しい記述も、たいへん興味深い。
また、この紹興という土地は、やはり秋瑾と同時期に日本に留学していた小説家魯迅の生地でもある。彼の有名な小説「薬」は、秋瑾の処刑を題材にして書かれたものであるらしい。武田泰淳は、この文学者魯迅と急進的な革命家秋瑾を対比させて描くという手法も用いている。
さらにまた、本作品が書かれた1960年代後半の、「文化大革命」の嵐が吹き荒れていた時代の中国を作者が訪問したときの様子も詳しく書かれており、文革の激しい闘争の一端も叙述されている。その点でも、興味深い作品である。
紹興には、魯迅記念館と秋瑾の生前に住んだ家とが共に保存されていて、作者はそこを訪れるのだが、このとき魯迅記念館の案内係をしていたのは、なんとあの名作「故郷」に出てくる、魯迅の少年時代の親友「ルントウ」という名の農民の息子だったそうだ。これには驚いた。
この小説を読みながら考えたことを、以下にいくつか書いておきたい。

「恥」の文学

秋瑾は、非常に過激な行動主義者であったとされるので、理想を行動において実践し若くして死んだ人間と、行動せず生きながらえたという自意識をもつ作家自身との対比が、この小説のひとつの軸を形成しているようにおもう。この対比は、小説の後半では秋瑾と魯迅との関係に重ねられるが、全体を通しては、若くして行動して死んだ女性の中国人の革命家である秋瑾に対しての、老年の男性の日本人の小説家(しかも、中国文学研究者)である武田泰淳の思いを描くという内容になっている。
その「思い」の中核をなす感情は、おそらく「恥」である。
戦時中に書かれた傑作『司馬遷伝』が、『司馬遷は、生き恥さらした男である。』という有名な一節によって始まっていることにも示されているように、武田泰淳の文学を語る場合に、「恥」は大きなキーワードである。
本作品においては、それは、男性の女性に対する恥であり、生きながらえた者の若くして死んだ者に対する恥であり、文学者の革命家に対しての、また日本人の中国人に対しての恥という側面もある。だが、最終的に、この「恥」の感情のよってきたるところを確定するのは難しい。この「恥」の感情を、もし倫理性と呼ぶとすれば、それはまったく生理的な倫理性であるとおもう。そのことを否定しなかったところに、たぶんこの小説家の最大の特質がある。
「恥」という感情について、自分の生理に近いところから、あるいは自身のセクシュアリティーにかかわるところから鋭い考察を加えた人といえば、西洋では『社会契約論』の著者ルソーがいる。これも前に書いたが、武田泰淳という作家の思想性は、ルソーのそれによく似ている気がする。
ともかく、『秋風秋雨人を愁殺す』を全体としてみれば、それはこの作家の極めて個人的・生理的な「恥」の感情に関する小説であるという見方が出来るかとおもう。

泰淳と三島

たとえば、ちくま日本文学全集武田泰淳」の巻の解説では、鶴見俊輔が次のように書いている。

滅亡の歌は、ある時にはあざやかに、ある時にはかすかに、彼の作品になりつづけた。
くにがほろびたあとに生きのこって、何か書き続けていることのはじらい。それが武田泰淳の文体である。

この表現は、誤りではないだろう。こうした戦後の生に対する「はじらい」の意識において、泰淳は特に三島由紀夫と共鳴するものを持っていたとおもう。秋瑾の壮絶な行動と死に三島が重なるというだけでなく、「くにがほろびたあとに生きのこ」ってしまったもののはじらいと焦燥において、三島はむしろ泰淳と精神的に近い位置に居たとかんがえられる。三島事件よりも数年前に書かれたこの小説が、やはり三島事件と同時期に起きた連合赤軍事件に関してもであるが、予言的な感じを読むものに与えることは事実である。このことは、非常に大きな関心をひく。泰淳が、「留日」時代の秋瑾の過激な振舞い(短刀を演壇に突き立てて、魯迅たち慎重派の留学生に「死刑宣告」をしたという)を見つめる魯迅の視線に、自分自身の文学者としての眼差しを重ねているらしいことをかんがえればなおさらだ。
だが、泰淳のいう「滅亡」を第二次大戦による国家の滅亡にだけ還元することができるだろうか。先に述べたように、彼が書くこと、生き延びることの「恥」に強く言及した『司馬遷伝』を書いたのは、戦時中のことである。
泰淳のいう「滅亡」の概念や、それに関係する「恥」の感情は、戦争による国家の運命とは必ずしも重なっていない。それと無縁だとはいわないけれども。それらは、もっと根源的、いや肉体的・生理的なものだとおもう。

無名戦士へのオマージュ

行動主義的な革命家としての秋瑾についての言及では、次のくだりが印象深い。
辛亥革命前の、中国の革命的組織としては、二つ大きなものがあったらしい。孫中山(孫文)の率いる同盟会と、陶成章、蔡元培らが指導した光復会の二つである*1。この光復という言葉は、いまでも韓国では日本の支配から解放された8月15日を光復節と呼んでいるが、他民族の支配からの解放を意味する言葉なのではないか、とおもう。このことについては、後で少し書く。
秋瑾は、その光復会の重要なメンバーであった。同盟会が組織を固めることに重点をおいて慎重にことを運ぶ団体であったのに比べ、光復会の方は急進的な行動性を有するグループであったらしい。秋瑾はそのなかでも、特に過激な行動主義者だった。
そのことに関して、武田泰淳はこう書いている。

漢民族を中心とする共和国を建設するための、孫文の方針はたしかにまちがってはいなかった。だが、その正しい方針が、血と涙にまみれた闘争ののちに実現されるためには、孫文路線にしたがわないで、あるいは孫文計画を無視して、めいめいの衝動と信念と実行にひたすら忠実な異端者が、次から次へ死んで行くことが必要だったのである。(p253 以下、ページはちくま日本文学全集武田泰淳」より)

また、こういうくだりもある。

(前略)どうして無数の彼ら、彼女らの名をのこらず記憶することができようか。姓名とは、そも何ものであろうか。そして、姓名を記憶するとは、そも何ごとであろうか。彼ら、彼女らは一生けんめいに、たたかった。そして死んで行った。就義しても、就義しなくても、みんな光復会の一員として、しばし地上にとどまり、そして地上から去って行ったのだ。何を今さら我々が附言することができようぞ。(p242)

孫文による革命の実現に先立って死んでいった、そして中国においてももちろん日本においても想起されることのほとんどない、中国の無数の革命の烈士たちの一人として、秋瑾というひとりの女性を記念し追悼するという作者の切実な思いが、この作品にはこめられている。
だがこの思いは、同時にたいへん屈曲したものである。

恥・負い目・ルソー

文革の頃、「訪中日本作家代表団」の一員として紹興を訪れた武田泰淳は、その地で秋瑾や魯迅の時代から農民たちがかぶっていたという「黒いフェルト製の帽子」を買う。
自分が手にしているこの帽子を、秋瑾の処刑を見つめていた農民たちもかぶっていたはずだという事実を、作家は『ひどくおそろしい真実のように』かんじる。
日本に戻って、この帽子を身に付けてテレビ番組に出演した作家は、この帽子や同様に中国から持ち帰ったバッジ(毛沢東バッジか?)に対する人々の軽薄な態度を見ているうち、おそらく自分自身に対して強い「恥」と憤怒をかんじて、こう叫びそうになる。

「この黒い帽子はですねえ。この赤いバッジはですねえ。これらはみんな流行とか、おしゃれとか、は無関係なんですよ。中国には革命というものがあったんですよ。勇敢な中国の男女が革命のために、ただ革命のためにだけ死んでいったのですよ。彼らはどの新聞社や放送局にたのまれて革命に出演したんではないんですよ。彼らが革命のために死んだとき、誰が一体、見守っていてくれたんでしょうか。成功するかどうかも分かりゃしなかったんですよ。彼や彼女の周辺には、まるで無神経な動物のようにして、この黒い帽子をかぶって働いていた農民や商人がいただけなんですよ。しかも彼や彼女の生き血をひたしたまんじゅうをたべることによって生きながらえるかもしれないと信じている病気の子供たちと、その親たちがいたんですよ。私が訪中日本作家代表団の団長として紹興を訪ねたとき、どれほど恥ずかしい思いをしていたか、あなたがたに分かりっこない」
しかし私は、テレビ局でも黙っていたようにして、今後もなるべく黙りつづけたいと思う。(p301)

この「恥ずかしい思い」の内容が、ぼくにはやはりよく分からない。
自分が中国を抑圧し侵略した日本の国の人間であり、しかも中国文学の研究者でありながら日中戦争に従軍した経験を持つことが主たる要因であろうか。たしかにこの作品には、特に文化大革命のあり方の評価に関して、そのような作家の「負い目」をかんじさせる箇所もある。人間が道義的な「負い目」を持つということも、泰淳・ルソー的にかんがえるなら、単純な問題ではないであろうが。
また『司馬遷伝』のことを考えると、こうしたことと同時に、彼が文学者であるという事実も関係しているのだろうとおもう。だが、この「恥」はもっと生理的なものであろうというのが、何度も書くがぼくの見解である。
しかしそのことは、この「恥」が社会的なあるいは広義の政治的な感情であることを必ずしも排除しない。そこが、この作家の文学の興味深い点である。
その政治性というのは、ここでは「無神経な動物のよう」な農民や大衆の姿にかかわっているとおもう。秋瑾たち中国の無名の革命家たちは、この物言わぬ農民や大衆に取り巻かれ、死んでいった。これら革命家たちの背後には、この膨大な数の民衆たちの「重苦しい」歴史があったのだということを、泰淳は書いている。
泰淳の「恥」の意識、感情は、「くに」の運命にかかわるのではなく、この物言わぬ人々の「重苦しい」歴史と存在に関係しているのではないだろうか。
おそらくルソーにとってと同様、武田泰淳にとっても、「社会」や「政治」また「革命」とは、この「無神経な動物のよう」な人々との生理的な複雑な関係にかかわる事柄だったはずだ。
彼らは、その場所から離れることなく、革命や歴史をかんがえとらえようとした。そこにその文学や思想の独特の分かりにくさと繊細さの源泉があるようにおもう。


もう一点、読んでいてかんがえさせられたことがある。
それは辛亥革命に関することなのだが、ずいぶん長くなってきたので、明日書くことにします。

武田泰淳 (ちくま日本文学全集)

武田泰淳 (ちくま日本文学全集)

*1:ここ、ちょっと間違ってました。3月5日の記事の「その2」の方を読んでください。