『さざなみ軍記』

私は知っている。六波羅好みとは浮身をやつすことであった。しかし私は私たちの父であり母である六波羅がなつかしい。(井伏鱒二作『さざなみ軍記』)


いまプロ野球交流戦の真っ最中だが、ロッテとソフトバンクが相変わらず強いみたいだ。
ひとつ思うのは、プロ野球選手というのは、その日の試合で使ってもらえるかどうか分からない、非常に不安定な心理状態に置かれて仕事をしているわけだから、現場を預かる監督に対する信頼感というのは、チームや個人の成績にとって重要な要素であろうということだ。
バレンタインとかワンちゃん(王監督)というのは、選手からの信頼がいかにも厚そうだ。
阪神の岡田も、前任者の星野のようなカリスマ性はないが、チームの生え抜きであるということと、二軍の監督などをしてたことがあるので、選手との結びつきは強いのだろうと思う。
そこへいくと、「悪太郎」は・・。巨人は苦しいなあ。


ところで、交流戦の間だけなのか、最近阪神の選手が昔風のユニフォームを着ているみたいだが、それで思い出したのだが、往年の阪神には、強い関東の巨人を相手にして、いい選手をそろえながら、勝負どころで「貴族的」な勝負弱さをさらけ出して敗退していく、「平家」一門のような魅力があった。これは、平家がかつて福原(神戸)に都を置き、最後は一の谷の合戦にも破れて敗亡していった姿とのアナロジーも手伝ってのことだろう。
85年の日本一あたりを最後に、こういう集団的な滅びの美学みたいな要素は、あのチームからなくなってしまった気がするが。


平家の滅亡の過程を綴った井伏鱒二歴史小説『さざなみ軍記』は、昭和前半の、特に日中戦争の時代の日本の文学が生み出した最高の作品のひとつだと思う。読んでいて、日本にもこういう小説が存在したのか、と驚かされる。
井伏は、この中編小説が平家の一人の若武者の数年にわたる成長の過程を描く物語であることから、あえて10年近くにわたって断続的に発表を続けるというスタイルをとり、昭和5年から同13年までかけて、ようやく完成させた。恐ろしく贅沢な書き方だ。
いま読むと、使われている言語が、今のものとはすっかり種類の異なる部分があって、たいへん読みづらい面もある。そこがまた魅力である。
それは、一口に言うと、意味を表象する言語ではなく、前近代的アレゴリーとしての言語が用いられている、といえばよいか。


今では信じがたいことだが、日本の近代文学には、漱石に代表される個人の生をテーマにした作品群の一方で、階級という集団的な同一性を主題として扱った作品の系統があった。
階級というのは、プロレタリア階級というような意味もあるが、場合によってはそれと相関して、貴族や武士といった支配階級の没落というテーマも大きかった。
それは、鴎外にはじまり、太宰や三島、武田泰淳大岡昇平なども、このテーマを扱ったと思う。
『さざなみ軍記』も、そういうテーマが生きていた時代の小説である。それは特にまた、軍隊(陸軍)というこの時代の、ひとつの支配的な集団的同一性の存在と関わっているのかも知れない。