『風媒花』その2

武田泰淳

『風媒花』紹介の続き。

PD工場での講演

きのう、武田泰淳の「殺」に対する感覚ということを書いた。これは、人間に限らず生き物を殺すということについての感覚の鋭さである。それは生理的なもので、これが武田の倫理観の根底にあると考えられる。もちろん、戦場での経験が大きな契機になっているのだろうが、すべてをそこに還元できるわけではないであろう。
この小説で示されている重要な認識は、複雑化した現代社会(先の大戦を含む)では、誰が誰を殺しているか分からない、自分が知らぬ間に他人の殺害に加担してしまっているかもしれない、また「殺」ということについての自覚や痛みを伴わないままに大規模な暴力が行使されるようになっている、ということである。もちろん、やはりきのう触れた「加害者」と「被害者」という問題系が、ここに重なってくる。
こうした考えが展開されている重要な箇所のひとつは、峯がPD工場の労働者たちを前に講演するくだりである。PD工場というのは、米軍の管理下にあった日本企業の兵器工場のことだそうで、当時はここから朝鮮半島に兵器や弾薬が運ばれていって使われたわけだ。これは、当時の日本の労働者にとっては数少ない有望な就職先のひとつであったことが強調されて書かれている。
また、小説ではこの工場を舞台に、「帝銀事件」まがいの青酸カリを使った無差別的な凶行が発生する。戦争だけでなく、帝銀事件もまた、如上のような現代社会のあり方を象徴するものとして作者に受け止められていたようだ。
以下、峯の発言から抜粋。

「全部を殺す。これはある特定の一人物を殺すのとは、まったく違った意味を持っています。(中略)」「全部と決まったら、たとえ細谷君がいかに美人でも、銀ちゃんがいかに優秀な労働者でも問題にはならない。そんなことは犯人の念頭にないのです。つまりここに現代における大量殺人の新しさがあります。(中略)当節では殺人犯人と被害者の関係はよほどわかりにくくなっている。加害者と被害者は、もはや一対一で面と向ってはいないのです。さっき僕は、人間のわかりにくさが最近ひどくなっていると申しあげましたが、それは人間と人間の関係がわかりにくくなっているからです。殺す者と殺される者の関係が、じつに複雑かつあいまいになりつつあります。毒薬にしろ、原子爆弾にしろ、いざ使うとなれば、じつに簡単に人を殺せる。あまり簡単に殺せるから、いったい誰の意志で何の理由で殺されるのか分からないうちに、殺されるという事態が発生します。したがって犯人不明の大量殺人が白昼堂々と、奇怪不思議な名目のもとに行われることになる。つきつめれば殺す張本人は、どんな奴をどんな具合にどれだけ殺したか、勘定もつかぬということになりつつあります。自分が誰の犠牲になり、誰を犠牲にしているのか、それがお互いにわからない。犯人探しがむずかしいだけじゃない、被害者を探すのに五里霧中です。加害者がじつは被害者、被害者が実は加害者という実例は、我々が日常見なれ聞きなれていることですし。(後略)」


「今度の戦争をふりかえってごらんなさい」と峯は喋りつづけた。「じつに無数の人間が人間によって殺されている。愛国的殺人であろうと売国的殺人であろうと、殺人行為にかわりはない。みずから手を下さなかった人々といえども、何らかの形で殺人にかかわりのない者はいない。我々日本人のほとんど全部、否世界の人間のほとんど全部が殺人に参加したと言ってもいい。殺されながら殺し、殺しながら殺す。無数の媒介物によって、知らず知らずのうちに、どこかで誰もが人殺しに関係している。しかも現代の一番恐ろしい点は、殺人者が時がたてば自分の犯した行為を忘れられるばかりでなく、時によっては、自分が人殺しであることを知らないですむ点にあります。お互いに知らないですむ以上、罪も罰も問題にはならない。自分の犯行を知らない人々は、死ぬまぎわまで自分はたんなる善良平凡な市民であると信じて生きていかれる。ところがあにはからんや、彼らの善意にもかかわらず、彼らの明朗温良な微笑にもかかわらず、彼らの日常生活は、間接的に複雑な殺人行為の網の目に編みこまれているかもしれない。何も僕は、兵器弾薬を製造する人々を念頭に置いて喋っているわけではありません。軍需品の生産を即時ストップせよと演説しているわけじゃありません」
 聴衆の緊張のあまりのはげしさに、峯は少しばかりドギマギした。
「諸君がぼくの講演に感激してこの職場を捨てるようになったら、僕は諸君の家族の生活を保証しなけりゃならん。そんな大それた勇気は僕にはありませんよ。僕はもっと広い意味で喋っているんです。ペンを原稿用紙の上にすべらしている瞬間にさえ、僕が何らかの殺人行為に参加していやせぬかという、ごく漠然たる僕自身の予感から喋っているんです。平和運動の宣言に署名したぐらいで、この予感は消えるもんじゃない。僕が生きている限り、僕はきっとある種の殺人犯の片割れに違いないような気がする。これが困るんだな」
 「峯さん、神経衰弱じゃねえのかな」と銀ちゃんが言った。その言い方は親切で粗暴ではなかった。「そりゃもっともな話だとしても、それじゃいつまでたっても前進できないと思うなあ。いいじゃないですか、峯さん。悪い奴を殺すんなら、いくら殺したって」

ひどく長い引用になったが、どこを略したらいいのか分からなくなったためだ。


「銀ちゃん」が最後に口にする「それじゃいつまでたっても前進できない」という言葉は、ある意味で正しいと思う。また、「神経衰弱」ではないか、という助言も間違っていない。
峯のこの不可知論的な論理は、責任の所在を曖昧にすることにつながりかねない。いや、それは戦後の日本において、実際にそのように機能したのだ。「それでは前進できない」という批判は、その意味で正しい。この観念的な倫理性は、現実への対処を鈍らせることにつながりうる。
しかしそう批判することによって、「自分は日常において誰かを殺しているのではないか」という峯の実感が消し去れるわけではない。兵士や、戦時の国民や、軍需工場の労働者だけが殺人に加担しているわけではないということ、これは認識の問題というよりも、生理的な感覚の問題であり、つまり「神経衰弱」という言葉があてはまる。
そして、それがそうした感覚の問題であるという事実を、また問題のその水準を、武田泰淳は否認せず手放さなかった。
これは、彼が語るような認識の深遠さが、戦後日本社会の巧妙な「非政治化」に結果として寄与したかどうかとは別の次元の問題である。そして、異なる次元にあって、互いを照らしあっているように見える。

海岸にて

別の場面。
海岸での三田村と軍地のやりとり。

「俺は人殺しは嫌いだよ。人殺しって奴は、かならずどこか無責任なものだからな」と、軍地は言った。
 「人間なんてみんな無責任なもんじゃないですか。俺は人殺しとは無関係なんだって面してる人間にかぎって、おっそろしく、どこか無責任なもんですぜ」
 濡れて光る石の突堤は、二人の靴をすべらせた。砂地も靴を食いこませ、ズボンの裾を汚した。
 「人間は、万事にまんべんなく責任を持つなんて、できっこありませんぜ。何か一つ、これはと思うものに対して、責任を持つよりほかしかたないじゃないですか」
 「それは賛成だがね。君は何に対して、責任を持つつもりかね」
 「母の死に対してですよ。哀れな一中国婦人の死に対してですよ。誰も責任を持ってくれない死に対してですよ。僕はこれでも昔は、無類の孝行者だったんですからね」と、三田村は照れくさそうに言った。
 「君のお母さんは、どんな死に方をしたのかね」
 「・・・・よしましょう。そんな話は。思い出してもゾッとしますよ」

この場面では、三田村の存在が、作者武田の考えや心情を表明する役を担っている要素がいっそう濃厚であると思う。
「人間は何かひとつのことにしか責任を持てない」というのは、武田泰淳のよく知られた発言だ。自分にとってそのひとつとは「中国」だ、と武田は語ったことがある。
また、三田村の母に関する話には、戦争末期に病死した武田の妹への思いが重ねられているのではないかと思う。幼い頃から武田の「最大の批判者」でもあったというこの妹の死に関して、あるところで武田は、『彼女の無念、彼女の口惜しさを、百万分の一でもはらしてやらなければ、ぼくの文学者としての責任は、ゼロになるだろう』とも書いている。この亡くなった妹の存在も、武田の人生にとって、文学にとって、取替えのきかないものであったようだ。つまり、「中国」と同様、他者となったのだと思う。
いずれにせよ、ここでは作者武田の心情が、三田村の言葉を通して、軍地が表象する「正義」の思想、それはヒューマニズム的とも、国民的ともいえるかもしれないが、ともかく確固たる「正義」や「責任」の概念に抗っているのだ。それは無論、大文字の「政治」に対する武田の意識にもつながっているだろう。

三田村の手紙

ところで、上記の三田村の言葉は、この登場人物の過激な行動性を予告するものでもある。性急な政治的行動家としての三田村からの、三田村の主張は、小説の最後の部分に至って手紙の形で表現される。
ある経緯によって拳銃の暴発事故により傷を負った三田村は、次のように書く。

だが僕の心を領していたのは、僕にさずけられた(と僕は文字どおりそう感じた)貴重な激痛、激痛の意義と価値、盛り上がり花ひらく激痛の花園の香気のごときものであった。(中略)おおげさな言い方をすれば、その瞬間、僕は地球上の人々を襲っているさまざまな激痛の尖端を、僕の肉体に感じたにちがいない。他人が僕にあたえる激痛、僕が他人に与える激痛、その両方に僕は責任を持たなければいけないのだ。その責任のとり方が、僕の行為を決定するのだ。鮮血の濃厚さのあのやりきれない絶対性のまえには、すべての名論卓説は色あせて消えうせる。(中略)峯兄よ。願わくば、激痛の岸壁のあいだに細々とつらなる生の路を、自己の視線の先に浮かびあがらせたまえ。そのとき貴兄は、他人のあたえる激痛と他人にあたえる激痛を忘れはてた自分が、いかに人間の尊厳を失っているか、発見されるであろうから。

この言葉は、峯が講演で述べていた複雑化した現代社会に対する、より具体的には戦後の日本社会のあり方に対する、ひとつの立場からの批判を集約したものといえよう。それは『他人のあたえる激痛と他人にあたえる激痛を忘れはてた』社会であると、三田村は言う。これは真理だが、この真理は、一方では「殺」の思想につながっていく可能性を持つ。
武田は、戦後の日本社会の「人間の尊厳を失っ」たあり方を否定しようとした。つまり、三田村の言葉に強く共感しているわけだが、その尊厳の回復の方法は、「殺」の方向ではなかったと思う。「殺」の原理を先験的に斥けたわけではなく、それとは別の方向を模索した。なぜ「殺」の方向を選ばなかったのか、はっきり説明できる言葉はない。
それと同時に、軍地が表象するような「正義」による裁断にも、そして大文字の「政治」の働きにも抵抗を示した彼が、見出そうとした方向はどういうものだったか。
ここからが肝心なところですが、次回に続きます。