ニートとひきこもり

まだこんな感じ

はじめに、誤りの訂正です。
先日、作家武田泰淳について、「浄土真宗の寺の息子」と書きましたが、これは「浄土宗の」の間違いでした。
法然親鸞だから、きっとえらい違いだ。なんで間違って覚えてたんだろう?
しかし、日本で二番目に武田泰淳のことを書いてるブログかも知れない。


以下、別の話。

*

だがこれでいいのだろうか。私が滅亡について考えるのを止めるのは、単なるなまけ、臆病、忘れっぽさのなせるわざである。滅亡の持つ深さが、私にとってあまりに深く、その本来的な断崖に立って、文化の路をふりかえるときに感ずる目まいに堪えられないからにすぎない。 (武田泰淳「滅亡について」)

ニート」とは

以前、友だちから「ニートってなんですか?」と急に聞かれて答えに窮したことがある。
よく見聞きする言葉で、ぼくも使ったりするが、ちゃんとした意味を知らない。
このサイトによると、

NEETとはNot in Employment, Education or Trainingの略で、「職に就いていず、学校機関に所属もしていず、そして就労に向けた具体的な動きをしていない」若者を指します。

となっている。積極的に仕事に就こうとしない若い人たち、ということだろう。どうも労働省の関係の人が使い出した言葉のようで、少子化が進む中で納税者の数を確保しようとか、移民を増やさなくてすむように国内での単純労働力を維持したいとかいう、行政の意図が元々込められている概念だと思う。
だから悪いということではないが、言葉として曖昧なので、ぼくはなるべく使わないようにしている。
この言葉が使われる場合、経済や産業の問題としてよりも、現代の若者の「無気力さ」といった心理的な側面が強調されることが多く、倫理や道徳、公共性に関する問題として語られやすい。
ぼくも、この心理的な側面に関心があるが、一般には、それを本当に理解しようとする姿勢が論じる側にあまり感じられず、初めから「訳がわからん」とか「けしからん」というふうに決め付けてしまって、バッシングを加えることによって語る側の不満や不安を解消するという機能を果たしていることの方が多いように思う。まあ、バッシングというものは、そういうものだが。
批判すること自体はいいのだが、本当に意味のある批判である場合は少ない。語る側の情緒を安定させるための装置になってしまっている。そうまでして目を背けたいものは何か、と思ってしまう。

「働かない」という生き方

ぼく自身のことを言うと、「若者」というところを除くと、ぼくも「ニート」という範疇に入れてもらって差し支えないと思う。人と比べて「就労」していた時期は、すごく短い。
昔からそうなのだが、ぼくの周囲には、40代、50代、60代であっても、奥さんは働いてるけど自分は働いてないとか、定職に就いたことがない、という人たちがごろごろ居た。どの人も、ぼくから見れば立派な人たちである。ぼく自身は、まったく立派ではないのだが。
こういう生き方をしても、その人なりの精神的な安定や価値観が確立されていて、なおかつ経済的にやっていけるのであれば、特に問題はないのだと思う。外国には、こんな人はいっぱいいるだろう。
この人たちの生き方が無条件にいいというのではなく、「こういう生き方もある」ということだ。つまりこれは、「生きかたの多様性」の問題ではないか、と思う。会社勤めなどをして妻子を食べさせることも立派な生き方でありうるし、またそれなりの非もあろう。つまり、その陰で誰かは必ず泣いているはずだ。だからといって、それだけでこの人を責めることは一般的には出来ない。誰も泣かしていない人間などいないのだから。どんな生き方も、誰かにとっては理不尽だ。「責める」権利があるのは、本当に泣かされている当人だけだろう。
同じことが、仕事を持たず暮らしている上記のような人たちについても言えよう。
だから、そういう生き方を認められるかどうかは、その社会の文化的寛容の度合いの問題だといえる。その度合いが減少しているといわれるグローバル化以後の社会で、この人たちの肩身が多少狭くなっていることは、まあ考えれば当たり前なわけだ。

経済・制度の側面

だが、いま「ニート」という曖昧な言葉で言われている若者たちの問題というのは、そういう問題だけに還元できない面がある。
それは、ひとつには、経済・政治の問題で、産業構造が変化して所得の格差が広がるなか、また「新自由主義」的な政策が遂行されていくなかで、これらの若者の生命を含めた将来はどうなるのか、ということがある。
生き方の多様性に対する寛容の結果が多くの人間の窮乏と餓死だとしたら、それは「文化の問題」で済ませられるか。たしかに、元々文化とはそういうもの、つまり「死」を含みこんだ厳しいものだ、という考えも成り立つが、軽々にそう言い切ってしまうことも出来ない。
社会全体の制度の視点からも、この若者たち自身の将来のことを考えても、「強制的に働かせろ」という意見は、闇雲に「暴論」とは決め付けられない。対案が示せないなら。

生きる意欲の欠如

もうひとつには、上でも触れたこの「無気力」と言われる人たちの、内面の問題である。これを何か、大きな社会的変容の徴候として見るかどうか。
社会の変容がこの「無気力」の底にあるのだとしたら、もしかすると社会のあり方の方が問われているのかもしれない。これは、この人たちを道徳的に批判するかどうかとは別の問題。繰り返すが、道徳的な批判自体は、責任ある批判であればあってよい。
重要なのは、この「無気力」が、個々さまざまなケースがあるだろうが、どういう条件によって生じている場合が多いか、真剣に検討することである。どうも社会全体が、その検討を忌避している気がする。何より、本人たち自身が嫌がっているのかもしれない。
だとしたら、何か根本的なものを忌避している点で、この若者たちも、バッシングしている人たちも同じ位置にいるのではないか。少なくとも、ぼく自身はそういう自覚がある。


ここで、「ひきこもり」(「社会的ひきこもり」)という、ぼくにとっては、「ニート」以上に扱うことが怖い言葉が関係してくる。
なぜ怖いのかというと、この言葉は、「多様性」という所に逃げられない、人が生きることの根源に直面せざるを得ない事柄に関係していると思うからだ。つまり、広い意味の「文明」に関わることではないか。
ぼく自身は、そこに直面することを恐れて、「家族」という既存の社会の枠組みのなかに逃げ込んで生きてきたと思う。「ひきこもり」と「ニート」という二つの領域が別々にあるとは思わないが、少なくとも重度の「ひきこもり」と呼ばれている人たちは、そこから逃避できず直面した人たちではないか?そうだとすると、中途半端に言及することは、この人たちの生死に関わりかねない。だから、怖いのだ。
これは、「ひきこもり」が医学的な対象かどうかということ以前の問題だ。


ともかく、いわゆる「ニート」にせよ、「ひきこもり」にせよ、仕事に対する意欲があるかどうかという、いまある社会の仕組みへの適応の問題とは別に、生きる意欲があるかどうかという、さらに根本的な問題があると思う。
それが欠けているのだとしたら、もはや「生きかたの多様性」の問題ではあるまい。
ある人たちに積極的に生きること、生き抜くことへの意欲を失わせる何かが、この現実のなかにあるとしたら、それにどう向かい合えばよいのか、また最終的にその「何か」を容認するという選択肢があるのか。つまりそれは、自分や他人の生命や死を、どうとらえるかということだが。