堀江社長と韓国のメディア

モンロー主義?

3日、ライブドア堀江社長外国特派員協会で講演を行ったが、そのなかで『(日本でも)やっとインターネットが民衆のものになったんですよ』と言ってたのには、ちょっと笑ってしまった。
いまどき日本で「民衆」という言葉を使う経営者はあまりいないだろう。特にこの人の口からこんな単語が出てくると、すごくミスマッチで面白い。
前に紹介したインタビューにも出てきたが、やはり韓国のオーマイニュースを相当意識してるのかもしれない。

オーマイニュース」との違い

それで、堀江氏が件のインタビューで述べていたプランと「オーマイ」のやり方と、どこが根本的に違うのかかんがえてみたら、単純なことだった。
「オーマイ」の場合も、社員としての記者を置かずすべて一般の市民記者による投稿で記事が集められ、読者による人気投票で紙面(画面)が構成される。ここまでは、堀江氏が述べているネットメディアや新聞の方法論と同じ。社員記者がいないというのは、画期的なやり方だろう。
だが「オーマイ」の場合、「市民記者」といってもどういう内容の記事を掲載するかは編集する側が選択するから、社の論調と違った記事が載ることはないということだろう。政治的な言論としての同一性、一貫性はここで確保される。そのように選ばれた記事の数々に対して、読者が人気投票を行うというシステムになってるのだと思う。
たとえて言うと思想的な傾向が大体同じブロガーを集めてネット新聞を作ってるようなもので、ほんとに無名の一市民(匿名を含む)の投稿が人気を集めることもあるが、やはり人気の高いのは有名な市民運動家であったり、核問題とか環境問題の専門家など特別な知識を持った人たちということになりやすいようだ。
堀江氏のプランの場合には、最初に記事を集める段階でこのような取捨選択を行わないということだろう。だから、言論としての同一性あるいは一貫性が保証されない。ここが危惧されるわけだ。
根本的な違いだけど、ぼくにはここがピンと来てなかった。馬鹿ですね。
堀江氏は「オーマイと違って、政治はやらない」と明言してたから、「言論としての」なんてことは、はじめから眼中にないのだろう。ここが非難されるのはよく分かるが、ぼくの立場としては「当面、それでもいいんじゃないの」という気がやっぱりする。現状がひどすぎるのに、他の誰も有効な打開策を持っていないのだから。
この人の存在はやっぱり面白いとおもう。

「オーマイ」と「ハンギョレ」の違い

オーマイニュース」が、社員記者を置かないという前例のないやり方をとった背景には、独占資本である守旧大メディアの支配を打破しようという強い意志があった。思想的な背景が違うとはいえ、この意志だけを見ると、堀江氏もやはり一緒ではないかという気がする。
それから、世界一とも言われる韓国社会の急速なIT化、そしてある種のネット・ポピュリズム的な動向が「オーマイニュース」の出現と成功の背景にはあった。この点が「オーマイ」と、80年代に生まれた紙媒体の先行新メディアである「ハンギョレ」との違いで、読み続けた人には分かると思うが、「ハンギョレ」がリベラル的・社民主義的な印象が強いのに比べると、「オーマイ」にはナショナリズムの匂いが強い。反米・愛国・民族主義という路線が、「ハンギョレ」の普遍主義的な論調と比較すると際立っている。どちらも、人権とか環境とか平和、あるいは統一といった基本理念は変わらないのだが、「オーマイ」には日本でいう左翼というイメージからはかなり離れたところがある。


この違いがどこから来てるのかは、複雑で重要な問題だ。東アジア各国のナショナリズム的な風潮の高まり、といっても国家レベルのそれと、大衆社会の動きや雰囲気のようなものを同列に論じていいのかどうかも分からぬが、その傾向とIT化の進展とは連動しているような気もする。だとすると、「ナショナリズム」と一口に言うが、その心理的な内実は、メディアの大幅な変容に伴って、ぼくたちが歴史の本で読んできたような思想とはすっかり違ったものになっているのかもしれない。そこを踏まえなければ、本当の危険も分からないのかもしれない。


また、「オーマイニュース」を支持している人たちにとって、IT化に伴う金融市場・証券市場の拡大は、どのような意味を持つのか。支持者の大半、ということは現政権を支える層の人たちでもあるが、この人たちはアメリカや日本と同様の経済構造の激変を経験している。日本でいうなら「勝ち組」の人たちというか、ベンチャービジネスをやるような人たちも、「オーマイ」の有力な支持層であって、この人たちが持つ新種のナショナリズムに訴えかけて成功したという側面も、このメディアにはあると思うのだ。
つまり、「オーマイ」が集約し構成したような左翼性というのは、その内実としては相当右派的あるいは新自由主義的なものだったのではないか、という気がする。この点は、日本で「民衆のメディア」が今後追及されていく場合にも、考慮されるべきではないか。


80年代における「ハンギョレ」の成立の背景には、ネグリなどが主導したイタリア・フランスの左翼運動におけるメディア論の影響があったとおもう。「自由ラジオ」とかああいうものだ。「オーマイ」ももちろんそれを継承していて、だから「民衆の」といった形容も依然としてよく用いられるわけだ。「メディアを民衆の手に」というのは、元来ヨーロッパや韓国の左翼のスローガンだった。
インターネットの普及によって、この目標は達成されつつあるともいえるが、いうまでもなく「民衆」とはメディアによって作られるものでもあるのだから、この「民衆」はすでにインターネット以前の民衆とは変わってしまっているはずだ。
ハンギョレ」と「オーマイ」との論調の違いは、たぶんそこに由来している。

脱藩者はいないのか

堀江氏は、政治性の切捨てによって、「現代における民衆のメディアはどうあるべきか」という難題をとりあえずスルーしようとしている。これはいいことではないとぼくも思うが、では日本ではこれまで、旧来のメディアの内部にいた人たちのなかで、そうしたテーマの追求がどのぐらい行われてきたのか。
新興資本家に、韓国では大手新聞社を「脱藩」したジャーナリストたちがやったようなメディアの変革の役割まで担わせてしまっているというのが、日本の現状ではないだろうか。
「どういうメディアを作るか」は、本当なら資本家が考えることではなく、ジャーナリストが考え実現していくべきことだろう。
大手メディアの「堀江叩き」を見ていて、ぼくが不快感を持つのはそこのところだ。自分たちがやるべきだったのに出来なかったことをやろうとしてる人間がいるのに、経営者に同調して批判するばかりというのは、意気地がなさすぎではないか。
無責任に言えば、ここで新聞社やテレビ局を退社してライブドアに入り、堀江氏のブレーンになって(あるいは乗っ取って)自分が新しいマスメディアを作ってやる、くらいの人が出てきてもいいと思うのだが、どうだろうか。
韓国のように、労働組合や市民団体が自前で募金を集めて大きなメディアを立ち上げることが本当に可能なら話は別だが、そういかないのなら、日本なりの方法を実践するしかないではないか。