東京八景・戦時・教育

Arisan2005-03-01

太宰治『東京八景』。
三十代の小説家である主人公が、「東京八景」という題の自伝的な小説を書くことを思い立ち、伊豆の温泉の在る村にやってきて、実際その小説を書くという話。つまり、自己言及的な小説で、大半は『東京八景』=「東京八景」なのだが、ちょっとだけずれている。そのずれを利用した終わり方が唖然とするほどうまい。
岩波文庫版の巻末に収められた解説で、師匠の井伏鱒二もこの作品を誉めている。
ぼくは、太宰の特徴である「内面吐露」的な感じが嫌いで、「東京八景」の部分は嫌々読んだ。だが終盤の出来は見事だと思う。

(前略)人の転機の説明は、どうもなんだか空々しい。その説明が、ぎりぎりに正確を期したものであっても、それでも必ずどこかにうその間隙がにおっているものだ。人は、いつも、こう考えたり、そう思ったりして行路を選んでいるものではないからでもあろう。多くの場合、人は、いつのまにか、ちがう野原を歩いている。

私は、いまは一箇の原稿生活者である。旅に出ても宿帳には、こだわらず、文筆業と書いている。苦しさはあっても、めったに言わない。以前にまさる苦しさはあっても私は微笑を装っている。ばかどもは、私を俗化したと言っている。毎日、武蔵野の夕日は、大きい。ぶるぶる煮えたぎって落ちている。私は、夕日の見える三畳間にあぐらをかいて、わびしい食事をしながら妻に言った。「僕は、こんな男だから出世もできないし、お金持ちにもならない。けれども、この家一つはなんとかして守っていくつもりだ。」その時に、ふと、東京八景を思いついたのである。過去が、走馬燈のように胸の中で回った。


ところで、最後のエピソードは、妻の妹の婚約者が応召されて戦地に出発するというので、芝の増上寺の境内に見送りに行く場面である。ここはちょっと恥ずかしいぐらい感動的に書いてあるのだが、よく分からない点がある。

「安心して行って来たまえ。」私は大きい声で言った。T君の厳父は、ふと振り返って私の顔を見た。ばかに出しゃばる、こいつは何者というふきげんの色が、その厳父の目つきに、ちらと見えた。けれども私は、その時は、たじろがなかった。人間のプライドの究極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだことがあります、と言い切れる自覚ではないか。私は丙種合格で、しかも貧乏だが、いまは遠慮することはない。東京名所は、さらに大きい声で、
「あとは、心配ないぞ!」と叫んだ。これからT君と妹との結婚の事で、万一むずかしい場合が惹起したところで、私は世間ていなどに構わぬ無法者だ、必ず二人の最後の力になってやれると思った。


この場面は、昭和15年頃のことらしい。戦争中を描いたドラマなどでは、戦地に赴いて国のために死ぬのはやむをえないことで、生きて帰って来い、という言葉をかけることはタブーであったという印象を受ける。まだ戦争の末期ではないので、多少事情がちがうのかもしれないが、出征する人に「安心して行って来い」という生還を前提とするような言葉をかけるのは、普通のことだったのだろうか。
普通でなかったとすると、主人公はここである種の「抵抗」をしていることになろう。『私は丙種合格で、しかも貧乏だが、いまは遠慮することはない。』とあるのは、戦時体制における「日陰者」の立場からのプロテクトだと思われるのだが、当時の事情が分からないので、はっきりした理解が出来ないのだ。


太平洋戦争開戦前のこの時期には、戦地に行っても一応は生きて帰ってくることが前提にされていて、そうした言葉をかけるのも普通のことだったのだろうか。だとすると、戦争末期の死を必至の事柄のようにした出征へと、戦地に赴く人や送り出す人たちの意識はどのように移行していったのだろう。そこは案外、断絶はなかったのかもしれない。
日中戦争時代の「日常」とつながっているかのような出征という感覚があり、それと地続きに大戦末期の死が不可避的とさえ思われるような出征があった。とすると、市民的な日常と総力戦とが、人々の意識においてはそんなに断絶せずにつながっていたということか。
いまの日本の状況をかんがえると、すごく怖い。

死と教育と戦争

戦争当時の人々の心理というのは、想像することが難しい。先日も、戦時中に少年時代を過ごされた方の体験をうかがう機会があった。戦後は、学生運動市民運動の中心のようにして活躍された方だが、戦争中は自分は愛国少年で、出征して死ぬのが当たり前だと思っていた、と本当に当然のようにおっしゃる。成人するかしないかの歳で死ぬことが自明のことだとかんがえている少年時代というものが、ぼくには想像できない。これは、イデオロギーの力なのか。
ぼく自身は、戦後の教育を受けて育った。そこで形成された死生観がどんなものか、言うのは難しい。ただ、「なにかのために死ぬ」ことが当然だ、という教育はされなかった。
そこでの「生」のイメージは、無限定なものであったとおもう。命が尊いとかいう教育ではなく、生きて死ぬことを限界付けるような価値観が教えられない、そういう教育だったとおもう。結局は当時の国や制度にとって都合がよかったからそういう教育になったのだろうが、かんがえると、これはこれで辛い枠組みだ。
もう少し、人工的な価値観を与えてやったほうが、人間は元気に、またむしろ自立的に自由に生きられるのかな、という気もする。難しいところだ。


いまはまた、ぼくが育った頃とは違う教育を受けた人たちが現れてきている。これから、この変化はどんどん強まりそうだ。
戦争中の愛国教育とは違った意味で、戦場や社会で死ぬことを厭わない心理の人たちが作り出されつつあるのかな、という気がする。どう違うかというと、戦前や戦中のような「少国民」はもはや作られる必要がないという点であろう。熱狂的な国民主義者や戦況を判断して行動する主体的な軍人になる必要はなく、非主体的・非感情的に命令に服従する「部品」を育成した方が、国にとっても企業にとっても軍にとっても使い出がいい。そういう社会に変わったのだ。軍事面では、これは軍隊組織やテクノロジーの変化と密接に関係しているのだろう。
そういう社会的な要請のなかで自己形成してきた人たち(他人事のように言ってるが、ぼくにもその部分がある)に働きかけようとするとき、ぼくが受けてきたような教育の理念を対置するだけでは弱いのではないか。あれはあれで、当時の政府や企業が発注して作らせたようなものだから。
自前の価値観のようなものを、各自が、あるいは何人かが共同で編み上げて、みんなにそれを提示していく、そういう積み重ねがきっと大事なのだろう。
ぼくにも、そういうことの手伝いができればいいのだが。