『恋人たち』

橋口亮輔監督の新作、『恋人たち』を見た。
ネットを見ると、おおむね絶賛の評が並んでいるのだが、ぼくの感想に一番近いのは下の記事である。

http://niwaka-movie.com/archives/3201


この記事の内容は、細かい所までぼくの感じ方と重なっているばかりでなく、なぜそういう感想になるのかという理由を、丁寧に言葉にしてくれている。
ぼくにとっては、たいへんありがたい記事だ。
まず基本的に、この記事に書かれているのと同じく、ぼくも冒頭のあたりでは、「これはとんでもない傑作だぞ」と思ったのだが、全て見終わってエンドロールが流れだした瞬間に、「良い映画だけど、これはちょっと違うな」という、残念な思いが、はっきりとよぎった。
結末についていえば、ハッピーエンドというのか、元のサヤにおさまったようなラストになってるのだが、おさまれるようなサヤなんて初めから無かったからこそ、ああいうストーリーになってたはずなのにな、と思ったものだ。
そうした不満を抱きながらも、後で監督のインタビューなどを読んで、そのラストが確信をもって撮られたものだったことを知り、自分の感想に自信がなくなっていたのである。
でも、この記事を読んで、やはりそういう風に感じた人もいたのだと分かって、(変な言い方だが)心強かった。


この映画の最大の魅力が俳優たちの演技にあるということも、上の記事と同意見である。
ただ、ぼくの中での順番は、上記の記事とは少し違っていて、第一に片腕の男を演じた黒田大輔、次に不倫をするパート労働者の主婦役の成嶋瞳子、そして光石研という順番だ。一番の主役というべき篠原篤を、ほんとうならば第一に推すべきだろうが、そうしないのは、これまた上の記事に書いてあるように、あの亡妻に向っての独白のシーンが、あまり良くないからだろうということに、この記事を読んで気づかされた。あそこは、もっとも感情移入できてよい場面のはずなのに、どうも心に入ってこなかった。
ただ、上の記事とは違って、ぼくの場合、主人公が健康保険証のことで役所の窓口で愚弄されるあの場面には、非常に強い印象を受けた。
あの場面の篠原篤の様子を見ていて、山中貞雄の『人情紙風船』の雨の中で立ち尽くす河原崎長十郎の姿を思い出して、「まるで戦前の映画のようだ」と思ったのだ。日中戦争に従軍して死ぬ山中が、この遺作を撮ったのは昭和十二年だ。
そしてその二年前には、『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』を撮っているが、そう考えると黒田大輔のあの片腕の男も、はじめはその暴力(人殺し)をいさめる口ぶりからも、亡くなった水木しげるを思い出したが、むしろ大河内伝次郎の、どこか戦争の暴力の匂いを感じさせる容姿の方に似ているような気もしてきた。
そういうふうに、僕はこの映画を「戦前」としての今を描いた映画だと思い、だからあの日常に立ち戻っていくようなラストに違和感を感じてしまうのだろうが、それは勝手でかたくなな思い込みにすぎないのだろうか。
だが、そういう感想をもってしまうのは、そのラストにいたるまでに、この映画が所々で見せる人間や社会の掘り下げ方が、あまりにも深く鋭いからなのだ。
その深さ、鋭さに、結末を含め、いくつかのシーンは、たしかにそぐわないものだと思える。
その「そぐわなさ」が、ぼくの不満の理由なのだ。


この映画のなかで、いちばんインパクトの強かった台詞は、篠原篤が吐き捨てるように言う、「みんな、クソみたいな嘘ばっかりつきやがって」という言葉だ。
この映画が表現しているものは、僕には、この言葉に尽きていると思える。それに反する(あるいは克服する)ような言葉、それはあの亡妻への独白であったり、ラストのあたりの台詞であったりするわけだが、それらは、この決定的な台詞のリアリティの前では、うつろにしか響かなくなってしまうのである。
作り手が、その絶望のリアリティに止まれなかったことが、実に残念である。
この映画のなかで唯一、その絶望のリアリティに拮抗するのは、黒田大輔の「人を殺しては駄目だよ」という訥々とした語りかけだろう。
あの場面は、たしかに圧倒的だ。
だが、最後のあたりで、この男が片腕を失った理由を語るくだりになると、とってつけたような印象になってしまう。あのエピソードを入れるなら、もっと入念に「仕込み」をするべきだし、なくてもメッセージは十分届くはずなのだ。
そういう場面が多々あり、これは技術的にいえばたしかに「脚本の問題」ということになるのかもしれないが、秀逸な作品であることは間違いないだけに、なんとも残念な気持ちが残るのである。