広島・長崎の五輪開催案に思う

先ごろ、広島と長崎の市長が、五輪の開催地候補に共同で名乗りを上げるというニュースが報じられた。
この事も、それを聞いたときには、やはり唐突の感がぬぐえないオバマ大統領のノーベル平和賞受賞の報の直後でもあり、どこか違和感があるとは思ったものの、それをどう言葉にすればいいのか分からなかった。
「まあ、東京になるよりはいいよなあ」と漠然と思ったぐらいである。


各国の国威発揚の場であるばかりでなく、すっかり商業化してもいる現在の五輪のあり方が、「核廃絶の必要、平和の尊さを訴える」といった開催への理念にそぐわないという言い分を考えてみても、「そうした五輪のあり方を考え直す機会にする」という反論が用意されているようなので、どうも始末がわるい。
それに、両市の人たち、とりわけ被爆した人たちの間にも、さまざまな意見があるようである。
開催に反対だとインタビューに答えていた老人の「この気持ちは被爆した者にしか分からないだろう」という言葉に、胸を打たれる思いはするものの、被爆者でないぼくがその心情を代弁することも出来ない。
「平和を世界にアピールするまたとない機会だ」という意見にも、一理はある気もする。
だが、よくよく考えると、やはりどうもひどい事である気がしてきた。


一番核心だと思うことは、「核兵器のある世界」について、ということは、被爆者一人一人や、原爆で亡くなっていった数十万の人たちに対して、日本の国家や行政、ぼくら国民一人一人は、どういう位置に居るのか、ということである。
自分たちは被爆国の国民で、その立場から世界に平和をアピールすればいいのか。少し違うだろう。


もちろん、被爆した人(二世などを含む)や、その他の戦災の犠牲者は、そこに戦争そのものに対する加害性がまったくないとは言い切れないにしても、何と言っても国家(たち)による戦争の犠牲者である。また、戦地におもむいた兵士たちにしても、すくなくとも被害者の側面を、少なからず持っているとはいえる。
だが、国家一般、国民一般は、そうとは言えない。
ここでとりたてて、(重要な問題だが)在韓・在朝被爆者のことを持ち出そうというのではない。すべての被爆者、戦争の被害者に対する責任の問題である。


第一に、原爆投下に至ったあの戦争を引き起こした責任の多くを、日本が負っていることは事実だろう。ということは、被爆者に対しても、国や行政の責任者、またそれに働きかけるべき有権者は、「被害を負わせた」立場であるはずである。
第二に、今現実に最も多く核兵器保有している国はどこであり、その最重要とされる同盟国はどこなのだ?かつて核兵器を使い、核の時代を到来させ、現在も世界に軍事力を展開して戦争を行っている国はどこで、自国内の基地を提供してその戦略を支えているアジアの大国はどこなのだ?
もちろんそれは、アメリカと日本の関係を指すのであり、核の恐怖の時代を作りあげてきた責任を、日本が免れるはずはないのだ*1。つまり、ここでも日本の国家・行政・国民は、被爆者の思いに対して有責的な立場にあるはずである。
それなら、その責任を果たすための行為が、五輪の開催であってよいのか?「被爆国」として世界に平和を訴える前に、平和の到来のために行うべき具体的な努力が、数多くあるのではないか?それなしに行われる平和の主張は、むしろ「平和」という言葉の力を、失わせるだけなのではないか。


それでも、だからこそ、五輪を核廃絶と平和のアピールの場として活用すべきだ、と言うだろうか?
だが、もしそうまで言うなら、日本が行ったあの戦争の記憶と結びついた日の丸や君が代の使用を、その五輪開催においては認めないことを宣言するべきではないか。またそれによって、各国に国威発揚の場としての五輪のあり方の再考を強く迫るべきではないか。
まさか、「戦争Yes,核だけNo」という考えでないのなら、せめてそのぐらいのことはすべきだと思う。
それを実行するなら、なるほどこの五輪開催は、その理念に沿うものになる可能性があるかもしれない。国家の論理を乗り越えた五輪にしていくための先頭に、広島・長崎が立つ。そのために、まず自らが戦争の記憶と結びついた国旗と国歌の不使用を世界に宣言する。


これは、無理難題だろうか?
だが、核の廃絶と平和の尊さを訴えるためと称する大会が、日の丸と君が代の充満する場になるというのは、いくらなんでもひどすぎる。
まるで日の丸や君が代のために(金儲けのためにはもちろんのこと)、被害を受けてきた人、そして亡くなった無数の人たちの存在と心情が、利用されているような構図になるではないか。
亡くなった人たちは、国を愛していただろうし、そうした大会の有様を見てもきっと喜んでくれるはずだ、とでも言うなら、それは靖国神社の言い分とどう違うのか?


せめて、この問題がクリアできないのなら、広島・長崎での五輪開催は、行われてはならないことだと、今では考えている。

*1:まして日本は今、「環境に優しいから」という名目で、原子力エネルギーへの切り替えを推し進めている国でもある。