『父親たちの星条旗』

クリント・イーストウッド監督の映画を見ていて、しばしば受ける印象は、生粋の愛国者であり、伝統的・保守的な価値観の持ち主であるこの映画作家が、自分の愛する国と社会の姿を深い愛情をこめて、しかし徹底的に描き出していくことによって、その矛盾と苦悩を、フィルムの上にまるで自分自身の肉体が受けた傷のように刻みつけているというものだ。
その自らの意図に反して開いてしまった傷口をどうにか縫合しようとして、映画の結末部では決まって伝統的な価値観や、和解のイメージが提示されるのだが、そのことが到底縫合しきれない傷跡の生々しさを余計見る者の心に印象づける。


これまで見たこともない異様な、そして特別な戦争映画、『父親たちの星条旗』では、地獄のような戦場と戦争の映像は、文字通り「悪夢」を思わせる独特の色調で描かれている。
それが「夢」のように撮られているのは、そこで経験された現実と、兵士たちが戦場から本国に戻って経験する日常の社会との、総合できないほどの隔たり、分離を表わしているのだろう。一方が現実であるとすれば、もう一方は夢であるしかない、そういう絶望的な隔たりがこの世に存在することを、どんな「現実認識」も人に許さない戦場の現実を体験した兵士たちは知ってしまうのである。


野球場で、満員の観衆を前にして、戦場に「旗を立てる」という作り上げられた英雄的な場面を自ら再演する兵士たちは、その深淵が、実は戦場の地獄を体験してしまった自分たちと、熱狂する数万の観客(一般市民、国民)たちとの間に開いていることを実感したのではないか。
ぼくはこの場面では、プリモ・レーヴィが『アウシュビッツは終わらない』のなかに書いている、強制収容所に入れられた者たちが収容所のベッドで見るという、家に生還して家族に自分たちの体験を語ろうとするが「話しても聞いてもらえない」という、あの悪夢の話を思い出した。


圧倒的といえる場面、映像はいくつもある。
たとえば硫黄島への上陸前夜、ラジオから流れるラブソングを聴きながら、もやのようなものに包まれて無言でうつむいている兵士たちの群像。その場面の最後は、兵士の一人がともしたライターの炎のゆらめきへの、夢幻的なクローズアップだ。
戦費調達のために「英雄」の役を演じながら国中を回らなければならない三人の兵士たちの前に差し出される、問題のシーンの兵士たちをかたどった純白の菓子に流れる鮮血のような赤いソース。
また戦闘場面の物凄さにはあえてふれないが、兵士たちを乗せた大船団が硫黄島に向う途中、ふざけて船上から海に落ちた兵士が溺れているのを見捨てて船が進んで行くことを知り、残された新兵たちが愕然とするシーンでは、戦争とはどういうものかが端的に示されていた。
そしてなによりも、上陸作戦が行われた浜辺の向こうにそびえる、岩肌を露出させた山の威圧的な姿。戦場となり、所々から黒煙を立ち上らせているその巨大な山の、画面を蔽う空虚な存在感をどう表現すればいいか。


「愛国」「保守」の立場から、現代国家とその戦争の虚偽を告発する、この映画作家の立つ位置をもっとも体現するといえるのが、他の登場人物たちと同様に実在の人であった、三人の帰還した「英雄」たちの一人、先住民「マピ族」の青年であるヘイズだ。
彼を含む三人の兵士たちは、戦費調達の宣伝のために、硫黄島星条旗を立てた英雄として戦地から本国に呼び戻され、国中をレセプションやイベントのためにまわるのだが、その発端となった写真の撮られる経緯が一種の「やらせ」の要素を含んでいて、三人のうちでもとりわけヘイズは、その虚妄と、自分が英雄ではないという気持ちに耐えられず、酒びたりとなり、やがて精神的に荒廃していく。
戦争が終わっても、この先住民の青年の苦悩は続き、居留地での生活のなかでも、警察に拘留されたり失踪したりということを繰り返すようになる。
アメリカという国家のあり方を描こうとするとき、「アメリカ大陸」と呼ばれる土地の先住民の存在に重要な力点を置こうとするところに、イーストウッドの愛国思想の特質がよく表われている。それがあくまで、愛国主義的・保守主義的な視点だということは、新大統領となったトルーマンを表敬訪問する場面で、大統領に「君こそ生粋のアメリカ人だ」と言葉をかけられてヘイズが誇らしげに笑う場面に、よく示されてはいる。
だがそういう彼自身の視点から、イーストウッドはこの先住民の青年の魂の苦悩と、そこに重ねあわされたアメリカという国の人々の困難を、きちんと描いていると思う。自分自身をも苛む苦悩やねじれに対する、この誠実さこそ、この監督の作品の根底にあるものだ。
このマピ族の青年は、この映画では、歪められた「国」(そのことは、愛国者イーストウッドにとって、許しがたいことであるはずだ)の苦悩を映し出す、鏡のような存在として描かれているのだと感じた。


この映画で、もっとも微妙な部分は、戦地から送り返されてきた三人の兵士たちが、戦場で死んでいった仲間たちに比べて、自分たちは本物の「英雄」ではない、といって思い悩む姿である。
では、戦争において、本物の英雄というのは存在するのか、という疑問が、ぼくのなかに浮かんでくる。
しかし、次のような場面がある。
ヘイズが、「自分は英雄ではなく、死んでいった戦友こそ本物の英雄だ。彼が今の俺を見たらきっと情けなく思うだろう」と言って涙するのを見て、上官は、「その戦友がここにいたら、彼も『自分は英雄ではない』と言ったはずだ」と声をかけてなぐさめる。
ここでは、戦争には「英雄」など本当は存在しないのだという考えが、さりげなく表明されているのだと思う。
ヘイズたち、硫黄島で戦い生き残った兵士たちは、自分たちが真の英雄ではなく、勇敢でもなかったという思いに苦しみ続ける。それは「英雄」や「勇敢さ」という言葉、体に刻み込まれたイデオロギーのようなものに呪縛されている姿だといえる。だが、それは単純に、これらの言葉は虚偽だから洗い落としてしまえばいいということではない。
イーストウッドの「愛国」の本質は、ここにある。
ヘイズが、死んでいった戦友たちを「英雄」と呼ぶのは、彼らが死に、自分はここに生きているということの重さに耐えられないからだろう。ここでもまた、プリモ・レーヴィの「もっとも良き者たちは帰らなかった」という「生還者」の苦渋の言葉を思い出さずにいられないが、その重圧の耐え難さを逃れるためのものとしてだけ、生き残った者たちは「英雄」という呼び名を、「友や家族に対して」贈ることが許される、ということではないか。
やはりヘイズが、戦後になって突然居留地から姿を消し、何千キロも離れた土地に住む戦友の遺族(父親)に、星条旗を立てている写真に関する事柄の真実を伝えることを思い立つ場面で、「旗は、自分にとっては無意味だが、親たちにとってはそうではない」という言葉がかぶせられるのも、それに関係しているだろう。


映画の最後では、人は誰かのために犠牲となって死を選ぶ人々の行為を理解できないので、「英雄」という呼び名を付けるのだが、本当は「彼らは祖国のために戦ったが、戦友のために死んだのだ」というフレーズが出てくる。
この言葉は、戦争の否定ではないが、ひとつの角度からの戦争と現代国家への批判たりえている。
それは、国家の思惑やマスコミによって流通させられる言葉(「英雄」とか「愛国」とか)によって見えなくされてしまうような、友や家族との、またおそらくは他人や「敵」との、私的といえるような結びつきだけが、「国」という人間の営みの根幹を形成するのだという、信念につながっているように思う。
戦争や国家や資本主義という現代社会の大きな機構が、人間の生活と魂のそういう繊細な部分を傷つけ、破壊し続けていることへの、静かだが不屈の抗議として、この「戦争映画」は存在している。


15日付記:『Kawakita on the Web』さんの、よく整理された感想です。他の方の感想も紹介されてます。

http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20061111#p1