TBいただいた記事を読んで

日が経ってしまいましたが、南京大虐殺に関する番組の感想を書いた下記二つの記事に関連して、TBをいただいていました。ありがとうございました。

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080407/p2
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080408/p1



期待可能性
http://d.hatena.ne.jp/bat99/20080408/1207667597


関連して、(自分の考えを整理する意味で)思うことを少し書きます。


TBいただいた記事の内容は、実際の戦犯裁判の弁護を行った人が、「期待可能性の理論」の適用を示唆しつつも、その限界をも語っていたという事実を紹介するものになっています。
このような見解を述べている人が、当時の司法の専門家のなかにあったということは、はじめて知りました。


ただ、これはあらためて言うまでもないことかも知れませんが、ぼくが言いたかったのは、「人道」とか「普遍的な人間性」というものの名を持って、戦地・戦場という極限状況における人間の行動を、他人が裁くということが可能だ、もしくはそうされるべきだ、ということではありません。


軍隊の場合、兵役にとられるときからはじまって、本人が「選択」を(事実はほとんど強制的ながらも)行うと考えられる瞬間はあるでしょう。
敵兵を銃撃する瞬間や、命じられた虐殺行為を行う瞬間も、その最終段階に位置づけられるかと思います。
その全てがというわけではないけど、そのなかには、「命令に従わない」ことや「相手を殺さない」ことが、ただちに自分の死を意味するような瞬間があるでしょう。
そうであっても、それは「強制」ではなく「自由」な選択ととらえるべきだ、とぼくは書いた。
それは、この極限状況に立たされている人に、他人によって批判され、法によって裁かれるべき責任があるということではない。


むしろ、そうしたものから解き放たれたところで、この人は(追いつめられた極限状況であっても)、目の前の他人と、その存在や生命と向き合っているはずだ、ということです。
その意味で、この人は(こうした状況においても)「自由」なのであり、また法や組織・社会・制度といったものの外部において、目の前の他人に対して「責任」を持ちうる、持つことが可能な(自由な)存在である、というべきである。
そこに、この当人の生の救済や、倫理的な関係の回復の可能性を見ようとしたわけです。


このことが、「期待可能性の理論」の限界を示唆した、この弁護士の人の法理論的な主張とどう結びつくのか、また引用されているように『上官命令の抗弁を認めないという裁判規程にもかかわらず』、多くの末端の兵士に無罪や刑の免除が言い渡されたという事実があったということとはどう結びつくのか、ぼくには分かりません。
ただ、そのような「人間の弱さ」を認めたかのような判決(処置)において、実際には何が守られようとしていたのかは、慎重に考えるべきことなのだろうと思います。
どうもそこでは、上に書いたような意味での「自由」や「責任」、つまり兵士たちが戦地・戦場で遭遇し、場合によっては殺害した他人たちとの倫理的な関係(の回復)の可能性は、考慮されていなかったように思えます。


TBをいただいた記事を読んで、以上のように自分の考えを整理することができました。
ありがとうございました。