最近、町を歩きにくいのは

珍しい飛び出しくん

町角に
警官多し
雛の春


このところ、学校や子どもたちを狙った凶行が頻発しているためであろうが、特に小学校の周辺などには警備の人が多く立っている姿を見かける。また、小さい子どもたちの集団下校に先生らしい人が付き添って歩く姿も目にする。
ぼくは、いま仕事を何もしていないので、昼間近所をぶらぶら歩くのを日課にしているのだが、正直学校の近くなどは歩きにくい。不審がられて通報されるとまでは(今のところは)思わないが、警備の人たちや、子どもを心配して迎えに来ている保護者の人たちにすれば、平日の昼間にパッとしない格好の中年の男が学校に近づいてきたら、ちょっと緊張するのではないかと思う。ぼくの側にしてみれば、触らぬ神にたたりなし、という感もある。
だがぼくも、率直なところを言うと、子どもたちが遊んでいる町中の公園に、大人の男の人が一人だけ居る光景などを目にすると、ドキッとすることがある。その人にしてみれば、何の気もなしにただ時間を過ごしているだけなのだろうが、どうしても「不信の眼差し」で見てしまうのだ。だから、セキュリティーに過敏になる親たちや地域の人たちについて、どうこう言える立場でもない。
まして、ぼくには経験がなくてわからないことだが、小さい子どもを持つ親たちの「安全」を願う心情は切実であろう。

増え続ける「ブラブラする人たち」

いま「ニート」という言葉もあり、ぼくのように仕事をしない比較的若い人たちの数が増えているといわれる。これは大きな現象の些細な一部で、根本的には経済の構造が急激に変わって失業者が増えているのに、社会が新しい枠組みを用意できていないという事態であろう。
「仕事をしない」(ニート)ことと、「仕事に就けない」(失業者)こととは、一見違うことのように見えるが、経済構造の変化に適応できず弾き出されたという意味では、客観的には同じではないのかと思う。「主観的」な差異に拘らず、現実の変化にどう対応していくのかをみんなでかんがえないといけないところにきている。
この広義の失業者(あるいは無業者)の増加という、今後改善される見込みのあまりない経済的な現象に加えて、高齢化の進行という事態もある。つまり、リストラされたり、フリーターだったが年をとって働く場がなくなったり、いわゆる「ニート」(曖昧な概念だが)だったりという理由で、昼間から行く場所のない人たちに加え、定年退職したお年寄りたちもどんどん平日の町中に出てくる。
この人たちが、定職についている人たちに比べて特に危険というわけではないだろうが、とにかく知らない大人が昼間から近所をうろうろしてたりするわけだから、地域の人たちとしてはやはり不安が募るだろう。
「そういう煽るような報道をするからだ」というのも正論。また、「地域社会が崩壊しているからだ」というのも正しい意見だろう。
だがいずれにせよ、今後ぼくのように、平日の昼間から行き場もなく町中をぶらぶら歩く人の数は、減る見込みはない。そういう人たちが風景のなかに自然に溶け込めるような社会の雰囲気が作られれば一番いいわけだが、一朝一夕にできることではなかろう。むしろ現実には、この人たちの精神的な孤立や焦燥と、周囲の市民たちの不安や警戒心とは、相乗的に拡大する傾向にある。この点を調整する方法を早く見つけ出さないと、社会全体がますます不安定さを増し、息苦しくなっていくと思う。
市民が市民を警戒するだけならまだしも、「密告」社会のようになっていくことが不安である。

警察と市民との関係

それに関連して最近思うのは、町中で警察官の姿を頻繁に見かけるようになったということだ。一日に何度も見かける。今日も街角に制服の警官が三人も立っているのを見て、事件でもあったのかと思ったが、そうでもないらしく傍らに小学校があるので警戒していただけのようだ。その側を通るとき、ちょっと緊張する。
元来、ぼくはよほど不審に思われるのか、あるいは声をかけやすいのか、昔からよく警官に呼び止められ、質問されるのだ。そんなとき、平日の昼間であるし、もし仕事を訊かれて「無職です」と答えたら、余計不審に思われ面倒なことになるのではないか。最近、そんなことを強く思うようになった。
学校の周囲などに警官が何人も立つのは、「他にすることはないのか」とも思うが、警察にしてみれば「これだけやってます」ということを示す意味があるのだろう。それで随分安心する市民も少なくないということであろう。
上に書いたような事情から、地域社会をはじめとして、社会の有機的な結びつきや安定感というものが失われ、人々が不安から逃れるための方法として、警察力という外部的なものに依存せざるをえない心理がますます強まってきている。社会が内実を失い、人々の関係が希薄化するほどに警察の存在が人々の心のなかで大きさを増していく。これはかんがえものだ。


だが警察というものは、すごく権威的に振舞ったり悪い面もあるが、行政機構としてかんがえると、やっぱりなくては困るというか、ちゃんと機能していて欲しい存在だ。警察がものすごく弱体化してしまって、市民による自警団のようなものが力を強めることになると、数が少なかったり弱い立場に立ちやすい人たちは不安であろう。市民社会あるいは民衆一般の自律的な倫理に期待するというのは、甘すぎると思う。ぼくも、マジョリティーの市民である自分と、国の機構である警察という二者関係だけなら、「警察などなくしてしまえ」とさえおもうが。
このところ、立川の自衛隊官舎へのビラ配布弾圧事件など、公安警察の横暴が批判されることが多く、ぼくも由々しき事態だとかんがえるが、公安警察の問題と警察力一般の問題とは分けてかんがえるべきだとも思う。
公共的な存在としての警察力は、いまの社会ではやっぱりなくてはならぬもので、それだけにこれをどうコントロールしていくかが今後の市民社会の課題である。


難しいのは、警察は国の機構だから、国家の方針に左右される傾向が強いということだ。いまの国のシステムが「無職の人間は好ましくない」とかんがえれば、警察は無職の人たちに対して介入し、厳しく管理してくるようになる。また、これは公安に関する事柄だが、現在のように自衛隊が海外へ派遣されるようになり、米軍の軍事行動と日本との関わりが強まってくると、そうした国の政策を批判するような個人や運動団体に対しては、警察が監視や弾圧を強めるということが生じる。
これが、地域社会とか世間一般の意志が警察に反映されるだけであれば、たとえばぼくが警官に尋問されて「無職です」と答えても、説教されるか呆れられるぐらいで、通り過ぎる際にぼくがそう不安を抱くこともないであろう。
そういう国家権力からできるだけ距離のある、市民のための行政サービスの装置としての警察であればよいわけだ。だがそうはなりがたいのは、警察の存在が、法の維持と執行や、国家による暴力の独占という、国にとって根本的な事柄と結びついているからだろう。
このことは、特に公安警察に関して当てはまる。
上で触れた立川の事件にしても、被害届けは警察の側で作り、それを住民のところに持っていって印鑑を押させたり署名させたりということだったらしい。住民の不安が先にあって、それを解消するために警察が動いているという単純な話ではないわけだ。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/2004/shuchou1227.html

国の方針や警察組織の維持が目的となり、住民の不安の解消がその口実にされるという危険は常にある。
警察を市民の安全のための行政機構として、どう国や組織の権力から引き離し自立させていくか、これからの社会をかんがえるうえでたいへん大事なポイントであるとおもう。
憲法論議においてもこの点はよく考慮されるべきであろう。