ぼくが堀江氏を支持する理由

Arisan2005-02-25

きのうはライブドアのことで、自分がプロのジャーナリストでもないのに、ずいぶん偉そうな書き方をしてしまった。反省してます。
この問題については、右下のアンテナのところにリンクを貼っているPUBLICITYの竹山徹朗さんが、ブログのなかで明快な意見を述べておられるので、ぜひ読んでいただきたい。

人気投票はわるくない

ただ、ぼくとしてはやはり、「人気投票」で紙面を作るという堀江氏の新聞作りに対する考え方は、それほど無茶苦茶なものだとは思えない(今話題になってるのは新聞の話ではないから、ここだけ読んだ人は何のことかと思うだろうが)。
きのう紹介したインタビューのなかでの発言を読むと、堀江氏の狙いは紙の新聞が有している不要な権威を潰してしまう、ということにあるようだ。つまり、「新聞」というメディアから、特権的な権威を剥奪して、インターネットなどによるメディアと横並びの権威しかないものにしてしまうこと。


この発想をぼくが支持するのは、今日大新聞に代表される「報道の使命」といった謳い文句が、最終的には独占資本であるメディアグループの既得権益を守るための隠れ蓑になっているとおもうからだ。この資本の形態があるかぎり、大マスコミの報道において、金科玉条のごときジャーナリズムの「倫理」や「志」は、記者個人の「言論の自由」を守らないとおもう。
あのインタビューを読んで、ぼくが江川紹子氏よりも堀江氏の方にシンパシーをかんじるのは、この理由による。
ここまで言うといいすぎなのかなあ?

仮に堀江氏の言う「人気投票システム」の導入によって、非常に偏った、あるいは扇情的な新聞が生まれたとしても、堀江氏の狙い通りなら、そのときには新聞そのものの社会的な影響力はがた落ちになっているはずなので、悪影響はそれほど心配しなくていいはずだ。むしろ、みんなインターネットなどの別のメディアからの情報に重きを置くようになっており、そのことがもたらす肯定的な効果(リテラシーの向上など)の方が大きいようにおもう。
何より、どんなに正しいことを言っても、マスメディアのほとんどが独占的な資本の形態をとっているという現状では、「報道の自由」が十分に機能しないのは当たり前ではないだろうか。大新聞などマスコミは、結局は資本である自分の権益しか守ろうとしない。基本的には戦前から続いているこの閉鎖的な状態を、少しでも変えていかなければならないということには、異論の余地がないとおもう。


ぼくが堀江氏の「改革」を支持するのは、「新自由主義」の論理に共鳴するからではなく、それが戦前から続いてきたこの国のマスコミ資本のあり方を打破する契機になるとおもうからなのだ。


「権威なき言論」は時代の要請

読者からの「人気投票」のみによって紙面を構成するという堀江氏の新聞作りに対する戦略は、権威や新聞社が押し付ける特定の思想といったものが、紙面を歪める可能性が小さく、そこから政治権力による報道への介入も生じにくいという利点がある。
堀江氏はいわば「権威なき言論」を作ろうとしているわけで、ぼくは大枠としては、この方向に行かなければ日本のマスメディアは報道や言論としても、企業としても、もはや生き残っていけないとおもう。この認識でも、ぼくは堀江氏に全面的に同意する。


「人気投票」による紙面づくりは、堀江氏もインタビューの中で触れている韓国のインターネットメディア「オーマイニュース」がすでに実践し、大成功を収めた。きのうも書いたように、これと堀江氏が意図しているものとを重ねてかんがえることには、色々問題があるが、旧来のメディア資本の独占的な形態に挑戦し、大衆の手に言論や報道を取り戻そうという意図においては、ぼくは両者は案外近いところにいるのではないかとおもう。
結果がどうなるかはわからないが、こういう企業買収みたいな形であっても、一度大きな実験をやる必要が、マスコミに限らず日本の言論の空間にはあるとおもうのだ。

フジでも朝日でも

今話題になっている事柄において、買収の対象になっているメディアがフジサンケイグループだということは、ぼくにとってはどうでもよい。堀江氏が、このグループに目をつけた大きな理由は、このグループがもっとも「金儲け」につながりそうな体質をもっていると判断したからだろう。だから、買収によって、現在商業的な成功を収めているこのグループの「右寄り」のスタンスが修正されることはないだろうとおもう。むしろ、もっと扇情的になるかもしれない。
だが、堀江氏のメディア戦略は、先述したように大マスコミの言論としての影響力を相対的に引き下げることにあるわけだから、それはそれで構わないとおもうのだ。フジサンケイに関しては、正直なところ、「今より悪くなる」ことなんてあるのか、という気もする。


数年前、マードックという資本家がソフトバンクと手を組んでテレビ朝日を買収しようとしたときでさえ、ぼくは日本のマスコミの資本のあり方を変えるために、これは売却されるべきだとおもった。だが朝日新聞社は「日本の文化を守る」というような意味不明の理由をつけて、これを拒絶した。今回の産経新聞社の物言いは、これにそっくりだ。日本のマスコミ資本というのは、そういうものなのだ。
アルジャジーラがそうなるといわれているようにテレ朝がFOXテレビの系列に入ったりしたら大変だったじゃないか、といわれるかもしれないが、そうならなくても今のテレ朝はあの調子ではないか。

「株主至上主義」は嫌だけど

現状において、「報道の自由」が十分に確保され、権力や資本から独立した報道と言論が社会のなかで機能しているというのなら、改革の必要はないだろう。だが、明らかに今の日本のマスコミや言論の大勢はおかしいではないか。ぼくは、この閉塞の大きな理由を、経営と資本のあり方に見出す。だから、堀江氏の「冒険」には、概ね賛成だ。


大資本に支配されたマスコミだけが言論のあり方ではない。企業としてのマスコミなどは、市場原理のなかに投げ込んでしまえばよい。そのとき、人々の心に根ざした本当の言論の場が、ようやく日本にも芽生えるのではないだろうか。


ぼくはむしろ、この打破のために堀江氏が持ち出してきている論理が、「株主至上主義」という自由市場の新たな論理である点に、疑問を持つ。この論理によって、旧来の資本による言論の支配の枠組みから抜け出すことは、結局無理だろうとおもうからだ。


「会社は株主のためにある」という、新自由主義(というのかな?)の原理には、本音を言うとついていけない。大体、「株主」というのは誰なんだ?企業は、自分の会社のために働く人たちのことを第一に考えるべきではないか。特に日本の企業はそうだとおもう。
だが現状では、ライブドアのような新興企業の資金力に期待する以外、資本と経営のあり方に変化を起こしマスコミのあり方を変えていく道が見出せそうにないことは事実だろう。


再び韓国の例を出すと、オーマイニュースの創設時の事情についてはよく知らないが、同じように独占資本に対抗して作られた言論であるハンギョレ新聞の場合、労働組合や市民団体による募金活動などで原資が集められたらしい。ハンギョレの創立はたしか80年代だから、時代的な条件もあったのだろう。劇的なIT化と市場経済の拡大を経た2000年に立ち上げられたオーマイニュースの場合には、かなり違った金の集め方が出来たのではないかと推察される。
だが日本の場合、こうした市民主体のメディア経営への参入は、今のところ難しい。


何度も繰り返すが、ハンギョレやオーマイと、ライブドアがやっていることは、思想的にはまったく違うし、「報道」という観点から見ても異なるものにしかみえないだろう。実際、堀江氏は、いま構想している自分の「新聞」では、「政治」は商売にならないからあまり取りあげないつもりだと明言している(これは、左派にとっては好都合だとおもうが)。
しかし、旧来の資本の形態による支配から言論や報道を解放するという意味では、同質の試みであるともいえる。なんのかんのいっても、報道の問題、特にマスコミの問題は資本の問題でもあるのだ。
韓国とは異なり日本においては、このような形でしか「言論・報道の改革」がなされえないのは、残念なことかもしれないが、可能な道がそれしかないのなら、まずそこを切り開くことからはじめるしかないではないか。