ブログ・メルマガ・浅田彰

遅咲きの桜は早く散るものだそうで、近所の花はもう散り始めている樹さえある。
この土曜日に身内の花見があるので、それまではもってもらいたいものだが、日曜日は関西は雨の予報だから、桜花賞の馬券と一緒に花吹雪になってしまいそうだ。


このところ、いくつかのサイトで、ウェブ上のコミュニケーションに関する浅田彰さんの発言や、浅田さんのものらしいコメントのことが話題になっている。特に、この対談記事の最後に載っている浅田さんの文が、問題の所在をはっきり示しているだろう。

http://dw.diamond.ne.jp/yukoku_hodan/200502/index.html

また、まだ概要をご存じない方は、こちらのサイトをご覧になれば、ある程度知ることができるのではないか、と思う。立派な対処がされていると思う。
http://d.hatena.ne.jp/kwkt/

一連のことについての感想

はじめに言っておくと、ぼくは先日問題になったid:kwktさんの、対談に関するルポの記事をたいへん面白く読み、今後の同様の報告を楽しみにしていたので、『今後はもう一切レポートはアップしません。』と発言されていることについては、東京以外に住む「ニューアカ」世代の人間としては、甚だ残念である。だが、ご本人の判断であるから仕方がない。
また、ぼく自身も、これまでメーリングリストなどで、何度かイベントや講演の内容の要約と報告を行ってきたから、この話は他人事ではない。
今回の一連の動きを見ながら、反省するところも多い次第だ。


そのうえで、上記の浅田さんの考え方についての所感を言うと、浅田さんの立場になって考えれば、おっしゃっていることはよく理解できる、というのがひとつ。
また、上記サイトの文章の最後で言われている『ウェッブでよく見られる情報のルースな取り扱い』に警鐘を鳴らしたいという、浅田さんの言論の立場も、戦略として真っ当なものであろうと思う。
「戦略として」というのは、ネット上での情報が及ぼす影響力がこれだけ増大してくると、それに対する権力闘争を通して、言論空間全体になんらかの形を与えようとする意図があるのではないかと思われ、ご自分が「あえて抑圧的に言う」という役目を担われるのは、浅田さんのある種の責任感の表れではないかと考えるからだ。この態度は、尊敬できる。というか、かっこいいです。
だが今後もこのようなルポの重要性が失われることはないと思うので、浅田さんが言われるように、ひとりひとりが責任を持った要約や発表をすることによって、『システムによって縛りをかけるべきだ』という『反動的な主張』に対抗していくことが肝要なのであろうと、自分自身のことを含めて思う。

竹山徹朗さんの言葉から

ところで、こうしたことが話題となるのも、このところブログの隆盛をはじめとして、ウェブ上での言説のあり方が、いよいよ大きな注目を集めてきているからだろう。実際、また未読だが、雑誌『ユリイカ』の「ブログ」を特集した号をはじめ、ブログやウエブサイトに関する記事や書籍が注目を集め、各ブログを見渡してもそうした自己言及的なエントリーの多さが最近目につく。


ぼく自身も、そういうことについて、このところよく考えるが、実はそれに関して、メルマガPUBLICITY
http://www.emaga.com/info/7777.html
に載っていた、編集人である竹山徹朗さんの最近の文章(4月3日付け 1126号)がたいへん印象に残った(PUBKICITYのブログのページは、アンテナからリンクしてます)。
このなかで、竹山さんは、ブログとメルマガの違いに触れて、次のように書かれている。
(転載自由とあるので、引用します)

かといって、ブログ(ホームページ)がやりやすいわけではな
く、ブログの方は、「とにもかくにも完成品を出そう」という
ふうにならない。いくらでも書き換え可能だからね。いわば、
常に暫定版であり続けられる。

しかしメルマガは、なんといっても一度出したら、書き換える
わけにはいかん。この緊張感が、ブログにはない、ということ
に、両方やってみて気づいた。まあ、んなこといっても結局は
発信者の自律性の問題なのだが、それでも自由に書き換えられ
るってのは、大きい。

この竹山さんの言葉が、頭から離れないのである。
それは、ひとつには、ぼくも以前はメルマガをやってみたいという希望を持っていた時期があるからだ。
というのは、ぼくはこれまで暇にまかせて、ここに少なからぬ長文をダラダラ書き続けてきたが、またこれからも書くと思うが、本当は自分にはそれに足るだけの知識や教養、何より経験の蓄積がないばかりではなく、「言いたいこと」というのも、実はそんなにないのである。いや、「言いたい」内容は何やらモヤモヤとあるのだが、それをはっきりした形にして誰かに伝えたいというほどの、具体的な強い意志がない。
だから、自分の「主張」を無理に搾り出して書くよりは、色んな人の言ってることを集めて「編集」し、発信するということのほうが、やれそうだし自分に向いているような気がしていたのだ。だがいま考えてみると、そういうものでもないらしい。竹山さんが言われるように、メルマガには「削除できない」という緊張感があるのだろう。そして、どうもブログよりもメルマガの方が、「言論」や「主張」という概念に、より馴染みやすいみたいだ(あくまで一般論だが)。
つまり、やっぱりぼくには向いてないかもしれない、と思う。


竹山さんが言われるように、ブログには、「いつでも書き換えられる」という「自由」があるということは、ブログの特徴でもあり弱点でもあろう。この「自由」は、「発信者の自律性」を損ないかねない類の「自由」であろう。それは、「自由」というより、ぼくが以前に書いた「無限定」という言葉に近い。
だが大事なことは、その点に『両方やってみて』気がついた、ということだと思う。

フォーマットとモヤモヤしたもの

ここで戻って考えてみると、さっきぼくが書いた、

「言いたい」内容は何やらモヤモヤとあるのだが、それをはっきりした形にして誰かに伝えたいというほどの、具体的な強い意志がない。

という心理状態は、どうもブログというものの本質に関わる事柄のようだ。
ぼくは韓国の青年に友だちが何人かいるのだが、彼らと話していて感じるのは、自分が受けてきた戦後の日本の教育というのは、「言葉をはっきりした形にして、誰かに伝える」ためのフォーマットを子どもたちの内面に作らないという意味で、かなり特殊な教育だったのではないか、ということだ。
つまり、これも狭い範囲の体験に基づく印象でしかないが、韓国の人たちというのは、自分の意見を公的な場で主張したり、議論を戦わせたりするときに、自分の言いたいことを明確な形にして相手に伝えうるようにするためのフォーマットが、若い時期にもう自分のなかに確立されているように思えるのだ。これは、基本的には、学校教育で教えるしかないことだと思う。
こちらは、そういうフォーマットを作ってもらってないものだから、なかなか公的な場で主張を言えないし、議論をしても負けてしまうというか、言葉が出なくなってしまう場合が多い。
日本の戦後教育を批判したいわけでも、韓国の国民教育を揶揄したいわけでもない。
韓国の教育のやり方は、反権力闘争をする場合、非常に有力な武器を人々に与えたと思う。もちろん、マイナスの面もいっぱいあるんだろうが。また、日本の戦後教育について言うと、「フォーマットを植えつけない」ことが悪いこととは、一概に言えない。ただ、何か言いたいときに、基本になる形式が自分の中に無いために皆の前でそれが言えず、ひどい場合には馬鹿にされる(韓国人に、という意味じゃないよ)というのは、結構辛い。
そういうものは、鬱屈となって自分のなかに溜まっていくだろう。
この溜まった『モヤモヤと』した、言いたい内容に、角を立てずに表現できる場を与えたのが、ブログだったと思うのだ。


このブログというものがなかったら、われわれの「言いたいこと」は、「モヤモヤ」したままに、ガスみたいに充満し続け、変な方向へ爆発するか、陽の目を見ないままに蒸発して、当人を社会の歯車もしくは廃棄物にすることに貢献するだけに終わっていただろう。
何かをぶつぶつと言い始めたときに、「お前の言葉は無責任なおしゃべりじゃないか」と一喝されてしまったら、正直もう話す気はなくなるものである。
だから、ブログというものは、無責任なおしゃべりに近いものではあるが、このモノローグ的な言説の場は、やはり重要であることは間違いない。

二つの課題

問題は、これにどのように「フォーマット」的でないような柔軟な形を与えていくか、という方法論と、もうひとつは、この「おしゃべり」の場における自律的な倫理を、どう確立していくかという、二点だろう。
前者については、竹山さんが言うメルマガのような、別種の媒体を意識する複眼によってブログを見ていく視点が、重要なのではないかと思う。ブログ空間というのは、どうしても閉じてしまいやすいものだから、直接会っての会話なり、メールでのやりとり、またマスメディアへの投稿を通した議論など、別のコミュニケーションとの対比によって、つねに自己を相対化しておく必要があるものだと思う。
それがないと、ブログ的言説は果てしない自己言及に陥るだけで、現実世界のなかで有効な「形」を獲得することができないだろう。
後者に関しては、浅田さんが言っていることも、まさしくここに関わっているだろうし、差別・人権の問題、「表現の自由」の問題というものに関わってくるだろう。自分が「自由」なおしゃべりのつもりで書き散らしていることでも、立場の違う人にとっては暴力でありうるという可能性は、つねに頭に入れておきたいと思う。
ぼくも結構いろんなことをここに書いてきたが、同じことを書いても、たとえばぼくが「在日」だったら、すでに相当叩かれていたかもしれない。そういう現実がある。

ブログにとっての自由とは

結局のところ、「ブログにおける表現の自由とは」という問題に関する、ぼくの考え方の要点は、次のことにある。
ブログは「誰でも自由に発言できる場だ」と言うが、その場合の「自由」というのは、もともとなんなのか。ブログにおける自由は、「言論」の場における自由とは、一線を画しているはずである。そこにこそ、ブログの優位性、存在意義はあると思う。
つまり、硬直した「フォーマット」的な言論への、ちょっとした、ためらいがちの異議。ぶつぶつ言う独り言。
それならば、「言論の自由」という「言論的な」物言いによって、大文字の言論からの批判に対する自己の正当性を主張するというのは、やや本義に反するのではないか。
というか、ちょっと恥ずかしい、それは。「無限定」だということは、社会的には自分がマジョリティだということと、実際には同義でもあるから、この「恥」の感覚を失ったら、たんなる強者の居直りになってしまうと、ぼくは思う。それは、「フォーマット」に嵌っちゃうことだからね。


そのへんは、ぼくは変わりなくコソコソやっていきたいし、もっと要領よく立ち回りたいとも思うのである。