『フリーター漂流』を見て

あるところで紹介してくれた方があって、NHKスペシャル「フリーター漂流」という番組の再放送を見た。
この番組は、今の日本の製造業の生産現場が、人材派遣会社に登録するフリーターの人たちを主要な労働力として使うようになっていることを描いたもので、郷里を離れて日本各地の工場に派遣されて働く青年たちと、その親たち、また人材派遣会社の社員の人たちなどの姿が紹介されていた。
以下に、その感想を少し書きます。

まず、失業率が極めて高く若者の就職の困難さが特に著しい地域であるからか、この番組は北海道に住む若者たちの姿を題材にしていたのだが、そのためなのかナレーターに田中邦衛を使っていた。「北の国から」のような「ため」の効いた情感のこもったナレーションをするのだが、それがドライな労働現場の様子や、数日で「キレて」仕事をやめてしまうような「断片化」された現代の若者たちの姿とどうもそぐわず、変な感じだった。
まあ、それはいいとして。


ぼくもたびたび「人材派遣会社」のお世話になってきたので、労働現場の状況は大体知ってるつもりだったが、ここまで事態が進んでいるとはちょっと認識していなかった。
出てくる青年たちは、北海道で面接を受け全国の工場に派遣されていく。仕事は、通信機器の部品組み立てなどの単純作業。明らかに機械でも出来そうなのだが、さっき言ったようにバイトにやらせたほうが安上がりなのだ。期間は半年ぐらいで、寮のようなところに住み込んで働く。時給は900円ぐらいが相場のようだ。


びっくりするのは、いつ現場の移動がおこなわれるかわからないことだ。ある朝、請負会社(先の人材派遣業者とは別の会社)の担当者がメーカーの人事部の人に呼び出され、今日からラインを変えることになったから今すぐ別の工場にバイトの人たちを移動させるようにと指示を受ける。工場に出てきた若者たちに、急きょ移動が命じられる。こんなことが日常茶飯事らしい。臨時社員などと違ってフリーターには法的な保護もないので、こんな扱いが可能になるのだ。
チームを組んでせっかく出来上がりかけた人間関係も、突然の職場移動によって寸断されてしまう。これでは、友情も連帯もないだろう。すごく難しいはずだ。
変なたとえだが、昔ソ連の収容所で、政治犯を長期間同じメンバーで収容しておくと「連帯」の感情が生まれたりして管理に不都合なので、個人別に三ヶ月ぐらいごとに移動を繰り返させていた、という話を思い出した。
それと同じことで、これでは労働運動も、いやバンド活動とかも出来ないだろう。


人材派遣は、いま一兆円産業と言われてるそうだ。企業としては正社員を雇うとコストがかかるし、設備投資をしてオートメ化を図るよりも、バイトを雇って済ませたほうが安上がりな場合もあるようで、すぐに首を切れるという利便性もあって、日本の会社ではフリーター中心の労働現場に移行してきている。
ちなみに、この番組は「モノ作りの現場はいま」というサブタイトルがついていたが、視点が労働者の状況ということではなくて、「モノ作りの現状」という経営者目線なのがちょっとひっかかる。「どっちが大事やねん」と言いたい気分だ。
だいたい、こういう状況になってるのは製造業だけではないはずだから、その意味でもこの括り方には疑問がある。


まあそれもともかくとして、フリーターは、経済のグローバル化と不況が進行した現状のなかで、企業にとっては使い捨てのできる安価で流動性の高い労働力として、たいへん便利な存在だ。番組のなかで、ある経営者が驚くほどあっさりとそれを認めていた。
これは、明らかに日本の産業の構造が変化したということだろう。
日本の企業が昔より「非人間的」になったということとは違うとおもう。昔から非人間的なんだからね。


産業だけでなく、国や社会の仕組みも変わってきているわけだが、全体がそういう状況だから、働く人、特に若い人たちの精神構造というのも、それに応じて変わってきていて、バイトとして入った職場を数日で辞めてしまったりする。
もしぼくが雇う側の請負会社の社員だったら、この若い人たちの態度には切れていたとおもうが、若者たちの側にすると実際そういう代替可能な、部品のような断片的な存在としてしか扱われていないことが分かっているわけだから、精神構造も断片化し、短絡的になるのは無理からぬことだともおもう。


というより、ぼくも若い頃からずいぶんあっさりと、短期間で仕事を辞めることを繰り返してきた。ぼくの年代だと、こういう「社会構造」に責任を転嫁する論理は通用しにくいんだけど。


まあぼくのことは別にして、「こらえ性がない」とか「社会性が乏しい」とか、個人的な要因ばかりをあげて若者たちを批判することは、気持ちはよく分かるが、今の時代には本質を見失わせる恐れがあるとおもう。
社会の仕組みが変われば人間の心のあり方も当然変わる。いいとか悪いとかいうこととは、少し違うだろう。
仕事をすぐ辞めてしまうということは、その変化のネガティブな表われのひとつにすぎない。
社会の仕組みの急激な変化の歪みは、あらゆる立場の人が感じているものだとおもう。
この番組では、そのへんをなかなか丁寧に描いていた。


先ほど職場の配置転換が突然告げられるという話をしたが、請負会社の担当者もそれをその日に教えられるだけでなく、メーカーの人事部の人も当日聞かされるらしいのだ。
ちょっと甘い言い方になるが、誰もが「部品」としてしか扱われていない、ということではないか?
定職に就いていないぼくの場合、これは「聞いた話」でしかないのだが、今の企業の正社員の人たち、特にハイテク関係の会社の人たちなどは殺人的な労働時間を強要されているらしい。昔と違って、組合の力なども弱いから、会社の法外な要求を呑まざるをえないのだろう。
もちろんフリーターよりは保障があり、収入もいいわけだが、本当に「余裕」とか「展望」とか「安らぎ」のようなものがあるのだろうか。大きな家をローンで買っても、子どもや家族とどれだけの時間一緒にいられるのか。貯金をたくさんしても、それで本当に買いたいものがどれだけあるのか。何十年も過労死やリストラを免れて働き通したとしても、「いい老人ホームに入る」こと以外にその先の展望があるのか?
この人たちの人生も、すごく暗い気がする。


漂流する若者たちの親たちも、社会の変化の大きな波の中で苦しんでいる。運送屋をやっている年老いた父親は、業界の規制緩和の影響ということだったとおもうが、収入が激変した。それまで一緒に働いていた息子は家業を継ぐことができなくなり、人材派遣会社に登録する道を選ぶ。
父も息子と同じ波をかぶっているわけだが、老父には息子が置かれている労働現場の状況が理解しがたく、両者の気持ちに通じ合わない部分が生まれる。


ある視点で見るとみな同じような状況にあるわけだが、それを意識できないほどに、一人一人の存在が断片化されているのが、今の社会だという印象を受けた。
フリーターを「使う」側の人たちにしても、上に書いたような自分たちの状況で、どうやって他人を思いやる余裕が持てるだろう。深く考えすぎれば、自分の精神がもたなくなるはずだ。

「断片化」そのものがいいとか悪いとか言っても仕方ないと、ぼくはおもう。むしろ必要なのは、この「断片性」に対応するような望ましい関係や生活や社会のあり方を、見つけ出していけるかということではないか。

希望はないわけではないとおもうが、はっきり分からない。