『フリーター漂流』を見て その2

NHKスペシャル「フリーター漂流」は、幅広い人たちの関心を集めたようで、幾つかのMLやブログでもお年寄りから若者まで、この番組の感想を熱心に語っているのをみることができる。
それだけ、この番組が映し出した現在の社会のなんらかの側面に関して、自分を「当事者」であると感じる人が多かったということだろう。「フリーター」の若者や青年だけでなく、その親たちもあの番組を真剣に見ただろうし、中小企業を経営している人や正社員の人たちにとっても、生産と労働の現場に関することであるだけに、他人事ではすまない問題だ。
またなんといっても、「NHKスペシャル」という枠でこれをとりあげた効果は大きい。
NHKは最近には珍しく「公共放送」らしい仕事をしたといえるかもしれない。

「労働者の権利」とフリーター

ぼくがMLなどで読んだ感想のなかで印象的だったもののひとつは、大きな企業で労働運動を長年してきたらしい人の投稿だった。その人の意見によると、企業は賃金ばかりでなく「労務管理」の面でもバイトやパートを使うほうがやりやすい。雇用者と使用者が違うこと(派遣社員やフリーターの多用)によって、「労働者」の地位が非常に不安定になっているから、現行の「労働者派遣法」などを改正して、パートや派遣の「割合」の限度を法的に規制すべきだという意見であった。


これは「労働者」の権利を守るという意味では正論だろうが、割合が制限されたらバイトやパートの人は困るよねえ。
それに企業の経営も、正直すごく苦しくなるだろう。それで会社が倒産して働き先が減ってしまったら、元も子もない気がする。「連合」みたいな生ぬるいことを言ってると怒られそうだが、これは正直な心配だ。
ともかく、労働者の権利を守るために、バイトの数を法律で規制しろという主張には、いささか違和感を感じた。
バイトや低賃金労働者の雇用を守るために、外国人労働者流入を阻止しろという言い分にも似ている。


上の投稿をした人は、このフリーターたちの年金問題をどうするのか、とも書いていたが、終身雇用制と組合によって守られてきた「労働者」の権利と、年金制度などの国家的な仕組みを維持することに、この発言者の大きな関心があることは確かだろう。
フリーターという存在は、この枠組みからは逸脱する存在だ。「正社員になりたい、なるべきだが、なれない人たち」として認識されているのだろう。


実際には、就職して正社員になるよりフリーターのままの方がいいと思っている人たちも少なくないことは、周知のことだ。彼らは主観的には「正社員になりたいけどなれない」のではなく(そういう人たちも多くいるのだが)、「正社員になりたくない」わけで、上記の枠組みを社会的ととらえる人から見ると「反社会的存在」ということにもなりかねない。
まあ、この投稿をされた方はそんな強硬論ではないであろうが、要するにこういう自己選択的なフリーターの若者たちをどう扱っていいのかわからないのだろう。
はっきりいえば、年金のような制度が揺らぐという意味でも、正社員や労組に入っている人たちの立場が弱体化するという意味でも、こうした若者たちの存在は望ましいものではないと、かんがえられているのではないか。

社会・経済構造の変化と生の断片化

正直、難しいところなのだが、ひとつ押さえておきたいのは、こうした若者たちの意識の変化が、産業構造や経済の仕組みの変化に伴う必然的なものでもある、ということだ。
産業にとって、社会全体にとって、必要とされる労働力の質が変わったということは重大だ。自分で主体的に考えて判断し、一生のプランを自分で設計して企業人として働く主体的・統合的な「労働者」としての国民よりも、何もかんがえず、団結せず、疑わない、機械の部品のような人たちを生産していったほうが、国にも企業にも都合がよくなったのだ。
学校教育も企業の方針も、そうした大きな変化に対応するようなタイプの労働力の生産を目指す方向に流れている。「心のノート」などは、その現われであるとかんがえられる。
こうした社会の変化は、生産や教育の現場だけでなく、無論消費の場においても生じている。生活環境の全てが著しく断片化しているという現実のなかで、若者たちは育ってきて今を生きているのだ。彼(彼女)らがフリーターであることを自発的に「選ぶ」という生き方は、こういう現実のなかから出てきたものだ。
「フリーター」を選択する人たちは、社会の構造と需要の変化に応じて生み出されてきた存在なのである。


労働者の権利を守る装置として労働組合が機能していたのは、旧来の産業構造や国家のシステムに、それが合致していたからでもある。
終身雇用制のなかで、仕事も組合活動もバリバリこなし、税金と年金と社会保険をきっちり払い、選挙には投票のみでなく候補者の支援にも参加し、マイホームを築いてPTAの役員もやる。そういう統合的な人格を、国家も資本も組合も望んだ時代だったのだ。
国労解体」などで組合が意図的につぶされたから労働者の立場が弱くなったということも真理だろうが、いまの社会の「部品化」された労働力に、組合のような形態が適さないことも事実である。
日本では労働者の権利が守られる土壌が乏しいことは事実だから、労働組合のような組織を否定するものではないが、資本や国の側がおこなったように、組合も運動のあり方をモデルチェンジする必要があるのではないか。
正規雇用者や組合員の権利に固執するあまり、フリーターやパートの人たちの雇用を狭めるような主張が出てくるようでは、「既得権益を守っているだけ」という批判も避けがたいだろう。


話を戻すと、問題は、統合的な「労働者」のような存在から、断片化された生のあり方へという変化を、どのようにとらえるかだ。
人間が歯車にされ、権利が奪われてしまうような「断片的」な生存は、たしかに望ましくないことばかりのようにおもえよう。
しかし、この産業や経済の大きな変化のおかげで、解放されたものもいっぱいあるはずだ。若者の心が「断片化」されてきているのはたしかだが、「断片化」自体を否定するよりも、「断片化」に見合った、その良さを引き出すような社会作りを考えていくほうが現実的ではないかと、とりあえずはおもう。

「断片化」と「部品化」

ここで大事なことは、「断片化」と「部品化」は違うということだ。
統合的な生き方がイデオロギーとしての力を失って、人々の生き方が断片的になるということは、必ずしも彼らが企業や国家の歯車や部品のようになってしまうことを意味しない。


「部品化」というのは、「断片化」という新たな生存のあり方に対応して国や企業の側が編み出した、管理・操作のためのやり方だといえよう。「国民国家」とか「終身雇用制」というシステムの中で、以前から管理・操作はされていたわけだが、そのやり方が変わっただけの話だ。


だいたい、いままでの福祉型の「国民国家」システムというものが、実際にはどういうものだったかを、かんがえてみる必要がある。それは、「国民」や「労働者」(組合員)は守るが、それ以外の人たちを「部品」や「奴隷」にすることで成り立っていたのではないか。いまはそのやり方をやめて、「国民」の大半をも「部品」や「奴隷」にするタイプのシステムに変えようとしている。それはいいことではないが、これまでがよかったということにはなるまい。線の引き方が変わっただけだとも言える。


いま言えることは、社会や経済の構造が変化し、人々の意識や生き方も「断片化」してきたことに伴って、国や企業は、かんがえない、不満をいわない、連帯しない、ロボットや部品のような居住者・納税者を必要とするようになっているということだ。
これは、出世競争も組合活動も活発におこなうような統合的な「国民」「労働者」の姿を理想像としていた管理システムからの、決定的な転換だといえよう。
一生低賃金で、低い階層で、不安定な境遇のまま働き、子どもたちもそれを引き継いでいき、その現実にみな不満を言わない、江戸時代の身分制度のような社会システムを、現在の国家と産業システムは望んでいるといえるのではないか。


「断片化」した人々の生存が、この「部品化」という新たな管理システムに牛耳られないようにするには、何が必要なのか。
いま問われているのは、そういうことではないかとおもう。