補助労働力、その他

承前。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20110102/p1

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20110109/p1

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20110110/p1




フェミニズムはだれのもの?』のうち、ぼくが特に興味深く読んだ座談は、「労働にとって「女性」とは何か」(村上潔・栗田隆子生田武志)と「性≒暴力≒労働―堅気の仕事はどこにあるのか?」(鈴木水南子栗田隆子)の二つだった。


この二つはいずれも、従来女性が労働市場の中で置かれてきた状況(家事労働を含む)と、現在フリーターなど非正規労働者が置かれている状況とを、つながったものとして考えようとしていると思う。
ただ、つながっているとは言っても、そこには差異や対立・葛藤も含まれているはず。そういう話がされてると思う。


当たり前だが、「つなぐ」「つながる」ということは、差異を打ち消すということではない。
むしろ、ある共通性を見出す努力をするということは、差異を明確にする(解放する)ための行為でもあるだろう。
また差異の解放ということは、本来なら、大きな構造(権力のあり方)を変えていくということと矛盾しないはずである。
まあ、それはともかく。


ぼくが一番印象的だったのは、特に座談「労働にとって「女性」とは何か」のなかで、女性労働とフリーターの労働をつなぐものとして、「補助労働力」という観点が語られてたことだ。
ちょっと引いてみよう。

『そうした長い文脈から、女性労働の問題というのは、簡単に言ってしまうと常に補助労働力として規定されざるを得ないし、その補助労働力の問題を、現在の男性にひきつけるとフリーター問題となってくるわけです。(村上潔の発言 p71)』


『もうひとつは、ある女性が話をしてくれたのですが、なぜ女性は、たとえ独身であっても主婦的役割を要求する立場にいやすいのかと。つまり、何かの仕事の際に必ず「補助的役割」をする人が必ずいますよね。それは公の場であっても私的な場であっても、補助をする人がイコール主婦という立ち位置、仕事の補助をする人はフリーターという立ち位置となる。その補助をする、サポートする機能をどう捉えるかということで、主婦という立場が担ってきた歴史と、フリーターという言葉が担ってきた歴史とが重なり合ってゆく。(栗田隆子の発言 p93)』


この観点が刺激的だったのは、ぼく自身、賃労働の場ではずっと「補助労働力」のような仕事しかしてこなかったからである。
「補助」といっても、一口にはいえず、本当にその役割をする人がいなければ生産の全体が成り立たないような、優れた「補助」のあり方もあるだろう。
いま、介護労働のなかに専門性に応じてグレードをつけるような制度が検討されてるらしいが、補助労働一般に関しても、個々の人の能力差のようなものはあると思う(数値にしにくいが)。
しかし、それとは別に、労働全体、生産全体のなかで、必ず「補助労働力」が必要という構造があるのかも知れず、それならその仕事に就く人たちは、必ず一定数生じるわけだから、その人たちの生活を保障することは、その「一定数」を生み出している生産全体、社会全体の責任であろう。


「補助労働力」はなぜ必要とされるのか?
それは、労働力の安全弁のようなものかも知れない。
しかし、安全弁がなければ歯車全体が働かないわけだから、やはりその仕事に就く人たちの生活を保障するのは、社会全体、特に資本の責任だと思う。


それはよいのだが、ぼく自身は、自分には「補助労働力」的な仕事しか出来ないと、ずっと感じてきた。
そして、そういう仕事は、その生産性の低さに応じた低い賃金や、よくない労働条件で仕方がないと、ずっと思ってきたのである。
だが、これは「当たり前」のことではないのかも知れない(もっとも、それで生存が保障されるのなら「当たり前」であっても構わない気はするが。)。
それに気づいたのは、この本で「補助労働力」という概念に出会ったからだった。
「補助労働力」こそ、自分が労働の場で、ずっと置かれてきた条件だった。そのことに気がついた。


自分には「補助労働力」的な仕事が合っていると、ずっと思っていたが、それは「こういう仕事だから低賃金や、雇用の不安定さは仕方がない」という思いと表裏であり、そういう労働の構造のようなものを不問にする態度と結びついてきたと思う。
この構造のなかで、自分もそうであろうが、自分以上に圧迫されて苦しんでいる人が、過去も現在も大勢おり、自分はその人たちに対してするべきことをしないで、かえってこの構造を支えることに加わってしまってるのではないか。





だが、「補助労働力」的な仕事、それも専門性も生産性も卓越性も低いそれしか、自分には出来ないであろう、という思いも実感である。
このことをどう考えるか。
この場合、問題は、「能力」ということだけでなく、「気力」にもある気がする。
いま『「朱子語類」抄』という本を読んでいるが、朱子にとって大きな問題のひとつは、「理」がちゃんと認識できていても、「気」が充実していなければ何も実行できない、ということであった。
こうした問題意識は、朱子に反対したことになっている、伊藤仁斎のような人にも共有されてたと思う。
朱子の場合、「浩然之気」を養うことの重要性が説かれ、それは瞑想や内省といった「静」の方法によるよりも、現実日常の事柄への対処(義の積み重ね)によってこそ養われるのだ、と考えられたらしい。


このように、朱子や仁斎の時代の人にとって、「気」は重要なテーマだったが、ぼくにとっても「気(力)」の欠如こそ、大きな問題であり続けている。
(上に述べたような)「理」を正しく認識して「義」を実行するには、「気」が必要なのだが、その「気」が欠けているという思いがずっとあり、それが「補助労働力」しか行ってこなかった自分の人生というものと、重なることであるような気がする。


「気」という特殊な言葉を使ったが、これは、「無力さの感じ」と言い換えてもよい。
持つべき力をどこかに奪われて、ここに在る、という感じがある。
ただ、そうであっても、「ここに在る」ということ自体がよくないわけではなく、そういう「無力さの感じ」が、権力的でない生のあり方として、優れた(力強い)ものでありうるということも一般論としては言えると思うが、ぼくの場合には、負の要素がかなり強いような気がする。
「ここに在る」ということは肯定しながら、(他者のために)「義」を実行するための「気」は、常に取り戻し続けたい、という思いはある。


「朱子語類」抄 (講談社学術文庫)

「朱子語類」抄 (講談社学術文庫)




また、「性≒暴力≒労働―堅気の仕事はどこにあるのか?」も、ぼくには目から鱗の対談であった。
しかし、さすがにこの本への言及が長くなりすぎたので、これについては、是非現物をお読みください。