「生きる意欲」と「否定的な感情」

先日のエントリーのなかで、
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20060110/p1

ネオリベの風潮を批判するときに「労働の尊さ」のようなことが強調されるのに違和感をおぼえる、と書いたが、その大きな理由は、「生きる意欲」を誰でもがもっているという前提が、そこでは疑われていないように思うからだ。


別の言い方をすると、「労働の尊さ」を言う前に、「生きること自体の尊さ」という感覚が皆に共有されている必要があるはずだが、今の社会の現実はどうか。
それを共有するための努力が、十分になされているだろうか。
「生きること自体」に対する肯定的な気持ちがないのに、「労働の尊さ」だけを唱えるということは、人に歯車になることを強制しているのと同じではないか。


色んなところで話題になっている毎日新聞の「縦並び社会」のシリーズだが、この回は「フリーターの実態」ということのようで、やっぱりものすごく切実に感じられる内容だ。
そう感じる人は多いだろう。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060112-00000001-maip-soci


はじめに出てくる自殺未遂をした青年の話だけど、「もう少し生きてみようかな」という消極的な感じは、すごくよく分かる。
今の世の中に多く存在しているのは、「もう少し生きてみようかな」と思わせる程度の仕事(労働)と、そのぐらいの「生への意志」であるのが現実だ。


ニート」ということがよく話題になるが、積極的に生きる意欲が乏しければ、「働く」意欲が湧かないのは当然であろうと思う。
「意欲があるけど、不況で仕事がない」(雇用問題)とか、「働かなければ生きていけなくなったら働くだろう」(国の財政の問題)ということだけでは、問題の本質に届かない。


「働く意欲」の前提であるべき「生きる意欲」をそがれた人たちが、世の中におおぜいいるという現実を見据えることが基本で、ではこの人たちから「生きる意欲」を奪っているのは何か、というふうに問うべきなのだ。


先日も紹介したこのエントリーでワタリさんが書いておられるとおり、
http://blog.goo.ne.jp/egrettasacra/e/6e2c92404318b83ec55babf1b168736f

今の社会で強いられている生活や労働の条件、それから労働の質といったものが、(働いて)生きていこうとする意欲を減退させているということは大いにあると思う。
構造的にいえば、どんな心理的な状態も、かならず社会的な原因を含んでいるはずだ。
斉藤貴男などが書いているように、そうした心理のあり様は意図的に作り出されたものでさえあるかもしれない。
それに気づいていくこと自体によって、生きる意欲が回復するということはあるんだろう。
労働や生活の質を改善するということは、多くの人に生きる意欲を取り戻させるための、緊急の課題であると思う。


だが重要な問題は、現在の社会では多くの人が単調な「愚鈍労働」を求め、従属を自ら求め、「自我を破壊された労働力」(ワタリさん)になることを望んでいるというところにあるのだと思う。
思考しないこと、思考を、次には生そのものを停止することは楽なのだ。
そこまでポテンシャルの落ち込んだ状態の人たちに対して、何を、どう呼びかけられるのか。
実はこれは他人事でなく、ぼく個人の自分自身に対する課題でもある。


上のワタリさんのエントリーの中に、フリーターをずっとやっていると消息不明になる仲間が出てくる、といったことが書いてあった。
実はぼくも、以前のバイト先の同僚とはほとんど連絡をとらない。
いや、仕事の同僚に限らず、長い年月にわたって続いている他人との人間関係というものが、気がつくとほとんどない。
他人と関わる、人と一緒に生きる、といったことについて、なぜ自分はこんなにも冷淡なのか、と考えてしまう。


ぼくの場合は極端かもしれないが、毎日の記事のなかにも、フリーターをずっと続けていると友人が減っていく、と書いてあった。
フリーターのような非正規雇用の場合、人同士のつながりが築かれにくく、ちょっとしたきっかけで連絡が途絶えて、各自が孤立し断片化してしまう、といったことが生じやすいはずだ。
これはたしかに、雇用形態などによるところが大きいが、各人の内部で、他人との関係を継続していこうとする意志が乏しいこともたしかであると思う。


その心の底にあるのはなんだろうか。
自分の心のなかを覗いてみると、安定した居心地のいい自分だけの世界を、他人に乱される不快さへの嫌悪感が強固にあると思う。
そして、なぜそこに閉じこもろうとするのかというと、その不快さを克服して他人と関わっても得られるものがほとんどないのだ、というシニカルな感情があるためだ。
この気分が、生に向おうとする意志、他人との関わりに何かを賭けようとする意志を、いつでも挫いてしまう。


自分で自分の生の可能性と価値を根本では否定する、このシニカルな感情が、人を他人から、社会から遠ざけ孤立させるのではないかと思う。
孤立し断片化した人間に、社会から「お前は無価値だ」という裁定が(経済的、政治的に)下されたなら、人は死に向かうほかないだろう。
いや、自分の生に対する否定的な感情が根付いている時点で、すでにその人の心の底には「死」(生の否定)への方向性がインプットされているのだ。


今、社会のなかのかなりの数の人たちが、自ら「死」(生の放棄、停止)にひかれていく傾向があるということは、否定できない現実だ。それは必ずしも個体の「生命の死」ばかりとは限らない。
思考の放棄、意志の放棄、そして自他の生存の価値の否定。


この否定的な感情をどう解除するか。
その答えを探すことを、あきらめるわけにはいかない。