再び、サッカーのこと

先日、サッカーの日本対北朝鮮の試合について書いたが、あるMLの情報によると、去年日本でおこなわれた女子サッカーの同じカードでは、朝鮮側の応援席に生卵やペットボトルが投げ込まれていたそうだ。一部では乱闘騒ぎのようなこともあったらしい。でも、こうしたことは一切報道されなかったという。
ぼくは恥ずかしいことに、このことをまったく知らなかった。


こんな肝心なことを、何で報道せんのよ?


ぼくは恥ずかしいよ。こんな出来事があったことももちろんだが、それを今まで知らなかった、知らされていなかったという事の方がもっと恥ずかしい。
自分自身が知らなかったということもだが、それ以上に、日本のマスコミがこの事実を報じず隠したということを、ぼくは恥ずかしいとかんじる。


昨年の夏におこなわれた中国と日本のサッカーの試合では、日本から行ったサポーターたちが危ない目にあったということをあれほど騒いでおきながら、日本国内で日本の群衆が起こしたことについては頬かむりする、日本のマスコミ。これだから、日本人は「被害者意識」ばかりあって「加害者意識」がまるでないと、いつまでも言われ続ける。その通りのことをしてるんだから仕方がない。


要するに、「いつまでぼくたちは子どもでいるのか?」という話だ。無垢な子どものような心理のままにしておきたいという、国や資本の思惑があり、それに沿う形でマスコミが報道をしている。自分たちが「された」ことだけを大きく報じ、他人に「した」暴力はひた隠す。その結果、「不安」や「被害意識」だけが、社会に蔓延していく。
日本の社会全体、国全体がそういう仕組みになっているのだ。


先日の文章では、9日の試合で「不測の事態」が起こる可能性は少ないだろう、というようなことを書いた。たしかにそう思ったのだが、それでも圧倒的な数の日本人の応援団に囲まれた状況で自国のチームに声援を送る朝鮮側応援席の人たちは怖いだろう。まして、この人たちのほとんどは、朝鮮本国の人たちではなくて、日本に住み、日本の状況もよく知っている在日の人たちだ。
この人たちが当日スタジアムでかんじる恐怖感は物理的なものだろう。それは、ちょっと想像もできない。たとえ物理的な被害がなかったとしても、現場でかんじるだろう大きな心理的な圧迫は、なんらかの傷を残さずにいないのではないか。


そういう状況を醸成してきた責任を、政府ばかりでなく、日本のマスコミはどうかんがえているのか。NHKだけを叩いていてすむような問題ではない。
それを黙認してきたぼくたち自身の責任はもちろんあるが。


こういうときに、警察の警備に頼るしかないというのは辛いが、今回はそれに期待する以外にない。中国での試合のときには、中国当局の厳重な警戒にもかかわらず、「不測の事態」が起こった。日本の当局にはそれを防ぐ力があるだろうか。
いや、防いでもらいたいし、それ以前に、そのような愚かな行動を日本の人々がとらないことを願うばかりだ。