図書館論議・また補足

きのうの図書館関連のエントリーに、いくつか秀逸なブクマコメントがありましたので、それを読みながら、またもう少し考えます。


http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080509/p1


まず、これですね。

不当さの責任を行政に転嫁しているのは誤りではないか。むしろユーザーこそが、「待て、そいつは俺たちの仲間だ、だから追い出すな!」と声を挙げるのでなければ。


まったくそうなんだろうと思う。
非常勤の人を含めて、行政の現場で仕事をしてる人が、その人自身の問題として、野宿者なりその他の困窮している当事者への対応をどう考えるのか、それはもちろん大事なんだけど、基本的には、これはユーザーであるぼくたちが、何を望むのか、どうするのかという問題だよな。
少なくとも、行政が不当(怠慢)だと思ったら、それを改めさせていく責任があるわけだよな。そうしないと、結局は、自分が野宿者の人たちを見殺しにしてることになるわけだから。


一方に、追い出されたら死ぬかも知れない人について、「待て、そいつは俺たちの仲間だ、だから追い出すな!」と声を挙げるべきだという価値観があって、もう一方に、そういう人たちを誰か(行政の人とか)に排除してもらって、居心地のいい空間みたいなのを確保しようという価値観がある。
この二つは、両立しないものだろう。
多くの人が(ぼくみたいに排除反対の気分であっても)、自分が行動や責任をとらない(声を挙げない)ことによって、事実上後者を選択しようとしてることになる。
つまり、誰かの命より、快適さの方をとるような価値観を選んでるわけだ。
そのことを認めるのが嫌だから、すべてを現場の人(行政側、非正規とか)のせいにして、それについて、賛成とか、反対とか言う。
それはやっぱり欺瞞だよなあ。


あと、別のことだけど、排除する側になっちゃってる公共機関の職員の人たちも、多くは人間的といえないような労働条件で働いてるということがある。
ぼくは、図書館で非常勤の仕事(カウンターじゃないけど)をしてたことがあるけど、かりに資格があってもなかなか職にはありつけないとか、時給も高いわけじゃないし、期間が半年で切れたりとか、かなりしんどい待遇だ。
まあ、公共施設の非常勤職員、特に事務系というのは、大体そうだと思うけど。
一方、正職員の人はどうかというと、リストラが進んで、職場は大半が民間の派遣会社所属の非常勤職員になってて、それでもやっぱり正規の職員じゃないと出来ない仕事はあるわけだから、それをものすごく少ない人数でやらなきゃいけない。だから、ものすごい過重労働になってて、体調を壊してる人なんて、ざらにいる。
つまり、正職員にしても、非常勤にしても、まあ収入はぜんぜん違うとはいえ、どちらも強烈にストレスフルな職場環境になってる。


それでも「民間企業に比べれば恵まれてる」といわれるだろうが、ぼくが言いたいのは、野宿者のような人たちを排除するような仕事を(たいていは意に反して)することによって勤務が続けられてる、その人たちの勤務(仕事)の中身というのが、そういうものだということ。
湯浅誠が「貧困」のひとつの定義として「自分自身からの排除」ということを言ってるけど、まさにそういうものが生み出されるような職場、職種になりつつあって、そういう人たちが、言ってみれば「排除の現場」みたいなとこに立たされてたりする。
実際には、この人たち自身も、排除される側(自分を排除する側)に立たされてる、と言えるような。


しかも、そういう行政の対応を暗黙に支持(要請)してるユーザーの人たちも、普段はそれに似たひどい労働環境で働いている、フリーターだったり、過重労働の正社員だったりするわけで。
そういう日常のなかで「自分自身からの排除」という状態に置かれてしまうから、(野宿者の)排除を是認してしまう、声を挙げられない、みたいなこともある気がする。
決して、労働が悪いわけじゃなくて、要するに常にストレスフルな状態に置かれてるということが、問題なんだろうな。


それから、このコメント。

「「寝袋」に寝泊りしながら通ってくるような人は、館内から完全に閉め出されてしまうでしょう」一方ランガナタンは,図書館に仮眠室や浴場を作ればよい,とまで言った。


実際、以前に野宿者支援関係の人と話したときに、『図書館に仮眠室や浴場を作ればよい』というような意見を言ってた。正確に言うと、「ホームレスの臭い等が気になるというなら、シャワーを作ったらいい」ということ。
ぼくもそのときには、「正論だけど、そこまでは出来んだろう」と思ったけど、ぼくがこのところ書いてきたようなことを突き詰めていくと、公共施設は、本来そういう風にあるべき、ということになるだろうと思う。


つまりこれは、公共施設、(税でまかなわれるような)公共空間は、どういう場所であるべきか、という根本的な考えの問題になるだろう。
「誰かを排除して、自分たちが快適な空間を作る」ことに向かうのか、それとも公共というものを、「誰もが使える、誰もが生きられる、誰もが居られる」場所を作ることとして考えるのか。
後者の立場をとるなら、そしてこの立場だけが「自分自身からの排除」を免れる道だとぼくには思えるけど、図書館や公共施設に、シャワー室を作るという発想は、正当なものだろうと思う。