酒井隆史さんのレクチャーを聞いて

以下、フェイスブックmixiに書いた内容を、少し書き直して載せます。
酒井隆史さんのお話(レクチャー)を聞いたメモのようなものですが、僕の主観が相当入っており、また不正確な部分も多々あり、酒井さんがこの通りのことを言われたということでは、必ずしもありません。
それだけご了解ください。


大阪大学中之島センターというところで、社会学者の酒井隆史さんが都市とアートみたいなテーマで話をされると聞いたので、仕事帰りにちょっと寄ってきました。
これは近く大阪で行なわれる若い人たちのアートプロジェクトに関連した企画でした。
http://koefes.org/


酒井さんは、ご自分はアートが専門ではないのでという風に前置きして、2004年頃にあった天王寺公園青空カラオケ村の撤去の前後の様子を数か月にわたって撮影した(この時、原口剛さんたちとチームを組んで記録に取り組んだとのこと)ビデオ作品の上映から、話を始めた。
その時の体験から分かったのは、そこには集まって生活する人たちの重層的な歴史と記憶があったのに、それを抹消するようにして、行政と資本の論理による撤去が行われたということ。
そこから、最近の傾向である、多様性を理由にした排除(ジェントリフィケーション)の傾向に触れ、そういう逆説的な事態が起きてしまうのは、その時言われる「多様性」とか「共生」といったものには、重層性や歴史性の裏付けが欠けているからではないか、ということを言われました。
戦前の大阪では、公園は貧しい庶民のための公的な空間という考え方があったが、それは元来、「公園」という近代的な装置についての世界共通の認識だった。それが、特に日本では1980年代以後、イベントスペースとしての公園、記憶の重層(歴史)性を喪失した、のっぺらぼうな市民(消費者)のための空間に変質していった。
民営化されつつある今の公園は、その究極の姿。


「時間」「記憶」「歴史」こそが、いま重要である。
末期的な段階に立ち至った今の資本主義は、それらを切断し、人生の時間を切り刻むこと(断片化)によってしか存続できない。
労働の断片化(非正規労働)も、その一例だろう。全てを根こそぎにして、更新、更新で突き進んでいく今の社会と資本主義。
本来のアートの役割は、こうした社会の趨勢に抗して、人々の「持続」の感覚を養っていくことにあるのではないか。そういう酒井さんのお話でした。


これは資本主義一般の傾向だともいえるが、日本では特に「持続感覚の喪失」が著しい。
たとえば、海外に行くと、マイノリティが住む町の壁画に描かれているのは「闘争の歴史」。支配的な歴史を切断することで維持されてきた、その(民衆的な)「持続」の記憶によってコミュニティの力が維持されている。
日本の社会には、そういうものが欠けている。
そこではアートは、その本来の役割とは逆に、(支配者による)切断や、(民衆的記憶の)忘却のための道具と化してしまっているのではないか?(その例として、釜ヶ崎を「灰色の街」と捉えたうえで、それをアートによってカラフルに彩り「活性化」しようというプロジェクトの発想をあげることができる。http://cityriots.exblog.jp/24080540/


これについて、(リスナーとの質疑応答を含みながら)もう少し書くと、日本の社会に一番欠けているのは、「切断(闘争)の記憶」ということではないか、とのこと。
先に書いたように、海外では、民衆による闘争(抵抗)の記憶が伝承され、それがコミュニティの「持続」を支えている。
日本社会にはそれが無いので、国家から独立的な「個」が育たず、民主主義も育たない。人々はばらばらに切断され、断片化されて、天皇制という全体に呑みこまれていく。
それが、日本のナショナリズムの仕組みでもある。


やや前後するが、酒井さんは、先日発売された雑誌『現代思想』の鶴見俊輔追悼号に載せた自身の文章に触れ、鶴見の思想においては「反射」という概念が重要だったことを強調する。
「反射」は、理念に先立って働く身体的な感覚のようなもの。たとえば、無防備なデモ参加者に対して振るわれる警察の暴力を眼前にして、理屈抜きで「やばいじゃん」と思うような直観。あるいは、民衆の行動に介入してくる警察に向って「ほっといてやれや」と口走るような庶民的な実感(酒井さんも言ってたが、僕も特に京橋駅前でこの反応を経験したことがある)。
それが、鶴見の言う「反射」であり、その働きが「内ゲバ」の暴力も押しとどめうるのだ、ということらしい。
そうした「反射」(身体感覚)を再発見し、養うことが、運動にもアートにも社会にも必要ではないか、という話。


これに関連して、酒井さんが一番しみじみ語っていたのは、今の運動シーンの分断と断片化の深刻さ。
これは、何とかしなければいけないと、みんな思っている(今日は、アート系の企画だったのに、関電前の人や釜の人など運動系の人がリスナーで来てたのは、良かったと思う)。
これにも、先に述べた「持続」の感覚の喪失(剥奪)、(鶴見の言う)「反射」の喪失ということが関係している。
特に、ツイッターなどSNSの悪影響も大きいという話(これは耳の痛いところでもある)。


また、酒井さんが身近に経験していた、10年ぐらい前の大阪の運動シーンの話も出た。
たとえば、長居公園の行政代執行のとき、住人や支援者の人たちが台の上で行なった、あの芝居の話。酒井さんは、それに大いに注目したが、その後を見ると、ああしたことが継承されたり語られる形跡もなく、無かったことみたいに扱われている。それは、なぜかということ。
また、同時期にあった京大のくびくびカフェや、石垣カフェも、それきりになってしまったという現状。
あの時期から現在への継承が無いということ。
ここで、李珍景著『不穏なるものたちの存在論』にも描かれた韓国のスユノモの運動の特徴(生活的な共同性や、教条的でない生活倫理のようなもの、そしてユーモアの重視など)や、酒井さん自身が体験したニューヨークのオキュパイ運動の合議民主主義的な性格にも言及。そうしたものを取り入れられなかったぼく等(日本)の運動シーン。
オキュパイの運動で最も印象深かったのは、本当に多様な団体が集まっていたが、決して煩を厭わず、長々と会議・話し合いを続けた姿勢。あれこそが民主主義だと実感した。
でも、こうした姿勢は(僕が思うに)今の日本のメジャーな運動シーンには見られないだろう。
このへんは、正直、絶望的になる。


また、長居公園石垣カフェにせよ、オキュパイやスユノモにせよ、ピークは10年ぐらい前だろう(実際は、オキュパイは2011年でした。僕の思い違い。)。
特に日本では、この10年で、若者をとりまく状況は極めて悪化した。
酒井さんが言う「持続」の感覚は、食事などの共同生活の時間を通してしか養えないものだと思うが、今の若者たちには、そういう経験をするための時間的・金銭的余裕も乏しいのが現状だ。
そんな若い人たちから見ると、10年前の話は、もはや「昔語り」のようにしか思われないのではないか?
これが、最も深刻なことだと思う(会場で感想を述べた若い人の意見にも、酒井さんの話と自分たちの感覚との距離に戸惑っている感じがうかがわれた)。
最後に、過度な対立や緊張を取り除こうとする、スユノモにおける「笑い」の役割や、オキュパイ運動の(他者に対する)寛容さに関して、それらにおいては運動内の倫理性がどう担保されるのかは、気になるところだろう。
この点は、酒井さんに確かめられなかったのだが、おそらく、「長々とした話し合い」(民主主義)などを通じて、外からのお仕着せの倫理や規則ではない、自生的な倫理のようなものが培われたという趣旨だろうと思う。
ぼく等の社会には、それも欠けている。