それ、もうやってんですけど

中島岳志的アジア対談:高天原、『資本論』にインテリジェンス−−佐藤優さん

http://mainichi.jp/enta/art/news/20090326dde018070061000c.html


佐藤優氏の発言より)

その賃金は、端的に言えば暴力が水準を規定する。つまり、資本家の方が強いから、労働者が団結しない限り、資本主義システムは持たなくなる。組織された戦闘的な労働組合は、資本主義の維持に必要なんです。

 保守的で金のある人は、その金を労働運動に出すか、労働運動がすくいきれない、たとえば湯浅誠さんの活動に1万円、2万円を出す。こういうできるところからの再分配が、保守の仕事だと思います。


つまり、左翼とか社会運動の経済的な面倒(支援)を、現在の社会のなかでお金を持っている人達が担うべきだ、と言っている。
この対談の基本的なモチーフは、現在の社会の枠組みを維持するためには左翼運動も必要だから、その機能を維持していくにはどうしたらよいか、という発想である。つまり、現行の資本主義のシステムを維持し続けるための方策(機能)として、「左翼をどう生き残らせるか」という話が交わされている。


だが、現行の社会制度のなかで相対的にお金を得ている人達が社会運動を支援するということは、これまでずっと行われてきたことである。
実際、ここで名前のあがっている湯浅さんの所属するNPOにしても、最近まで不動産会社からの経済的支援を受けて運営されてきたが、その会社が倒産したので運営の危機に陥り、広く募金を募った、ということだったはずである。
どんな運動団体でも、個人や法人の善意(悪意でもよいが)に経済的な基盤を置いているということは、昔から変らぬものだろうと思う。


そして、新自由主義だとか、金融恐慌だとかいうなかで、今起こっているのは、そういう「善意」によってお金を出してきた人たちの層が、どんどん圧迫されて切り崩され、運動にとっての資金源、また物的・精神的な支えでもありえた人達が窮迫したり、世の中から居なくなっていきつつある、ということだろう。
この対談で語られてるような機能的な(システムにとっての)左翼必要論というのは、これ自体は昔からあるものだが、新自由主義の流れのなかでこの機能が危機に瀕しているということを問題にしてる。


だが、そもそも新自由主義的改革とか金融システムの破綻といったものがなくても、運動の可能が、善意であれなんであれ個人(もしくは法人)の「恣意」に委ねられている状態というのは、これを運動の側から見るならば、危なっかしくて仕方ないものである。
それこそ「ひも付き」となる心配もあり、決して望ましいあり方とはいえない。
そして何といっても、このあり方だと、現在直面しているように支配的な秩序の思惑や都合によって、資金源が社会のなかから消滅していってしまう危機が常にあるわけである(今、このことが歴然となりつつある。)。


もちろんそれなら自力で資金を稼げばよいのだが、資本主義のシステムのなかでそれをやっていくには、色々と無理・限界も生じるだろう。
そもそも、商売なんて片手間に出来るものではないだろうし。


そうすると、運動の側からいえば、もし運動というものの必要性が、機能的な意味に留まらず、社会において人間が生きていくことにおいて真に必要なもの、というよりも、行われるべきものだと考えるのなら(また、そのためには一定の経済的基盤がやはり必要だとするのなら)、それは当の社会全体に運動の存在の経済的基盤を担わせる方向に持っていくことが、筋だと思うのである。
つまり、人間が生きていくうえで、社会運動がなんとしても必要なのであるから、そのための最低限の負担は、この社会のメンバー全員に負ってもらう。


といっても、そうした活動にのみ助成を行え、ということではない。
そうなると今度は、「公によるひも付き」の危険が生じるであろう。
求められるべきは、再分配の強化によって、活動家・運動家を含む全ての人にある程度の、といっても現状よりはずっと整備された給付・保障を行っていくということである。
いわゆるベーシック・インカムが、このためのひとつのモデルとなるだろう。
ここで、それこそベーシックな経済的安定を得ながら、それ以上は、努力なり人々の恣意なりに基づいた資金集めを行っていく。


そういうやり方が、現行の社会制度全体をあるべき方向に変えながら、それに規定される社会のあり方、人々の意識のあり方そのものも変るように働きかけていく、ということになるのではないか、と思うのである。
いずれにせよ、佐藤氏の述べているようなプランは、運動の側にとっては、筋違いというばかりではなく、この線に乗ってしまうと、とりわけ現在の社会状況においては命取りになりかねないものだと思う。