『顔のないヒトラーたち』

新聞に紹介が載ってたので見に行ってきました。
http://kaononai.com/
この映画、アカデミー賞、とってたのか。
ナチスという過去に向き合ったドイツ(西独)の歴史の話ですが、今の情勢下で見ると、自分の国とのあまりの隔たりの大きさに呆然とします。
最初の方は、よくある戦後史回顧のナショナル・ヒストリーみたいな映画かなあと思ったけど(だから悪いとは一概に言えないが)、やっぱりすごい内容でした。


映画は1958年からの5年間ぐらいのことを描いてるらしいんだけど、この当時、ナチスアウシュビッツで何をしたかというようなことは、一般のドイツ人にはまったく知られてなかったらしい。登場人物の一人が「記録映画を見たけど、あれはプロパガンダだよ」と言うのが印象的だった。
これは、支配層を含めたドイツ(西独)の大人たちが、そのことに蓋をしようとしてきた、という要素が一番大きい。東西冷戦下なので、アメリカも、この問題はなるべく伏せておこうという意図があったということが、映画では示唆される。
ちなみに、東独の方でこの問題がどう扱われてきたのかは知らないのだが、支配層に限っていえば、そこは総入れ替えのような感じになったはずだから、このことに限っては西独とは事情は同じではなかったといえよう(市民レベルにおいては、統一後、何らかの取り組みがなされたのだろうか?)。
主人公は若い検事で、正義感に燃えてこの壁を突き破っていこうとする。職場で孤立する中、上司として、ユダヤ系の「検事総長」という人が出てきて、応援してくれるのだが、これは州の検事総長ということらしい。西独が連邦制をとったのは、ナチス時代の反省があって、司法の上でも地域に独立性を持たせたのかなあ、と思ったが、詳しいことは知らない。
この検事総長だが、ナチスの大物の告発に行き詰った時、イスラエルの記者と称する人たち(実際は、諜報関係者だろう)に主人公を引き合わせて協力を要請する。これは、政治的になかなか際どい話だろう。
ただ、その時、主人公に『この国では、私は今でも亡命者だ。オフィスの中以外では、敵に取り囲まれてる』と言ったのは、この当時の西独の国情と、ユダヤ人の置かれた状況を、よく表してると思った。そして、この「国情」は、今の日本のそれと、ほぼ同じであろう。
やがて、ナチスアウシュビッツに関わった市民たちに対する検挙と告発が軌道に乗りはじめると、主人公は上司や同僚たちからさかんに嫌みを言われる。『お前のおかげで、子どもたちは自分の親たちを責めている。お前もナチスだったのか、と』と言われたとき、主人公が『まさにそれこそが狙いだ。嘘と沈黙はもう終わりにするのだ!』と叫んだのは、日本の現状を考えると、非常に印象的だった。


しかし、この映画(というか、現実の経緯)はここからが大変なことになる。
西独政府やアメリカだけでなく、頼みの綱だったイスラエル(主人公たちは、戦犯を彼らに捕まえさせたうえで、ドイツに移送させようとしていた)も国際社会での立場を考えて、途中からナチス戦犯の追尾から手を引いてしまう。この経緯や、アイヒマンがドイツではなくイスラエルで裁かれることになった背景には、両国間の取引のようなものがあった(ドイツ政府が受け入れを嫌がった)という事情は、この映画で初めて知ったが、考えてみると、ありそうな話だ。
そして、何より、「ナチスの罪を暴く」ということは、自分の身内を含めたドイツ人社会全体を暴いていくことだという現実が、主人公に重く圧し掛かってくる。
この映画のタイトルは、無論、そういう意味である。
主人公はアル中気味になり、検事の仕事もいったんやめて法律事務所に勤めかけたりする。
そのとき、かつて収容所で娘たちを惨殺された経験を持つ、あるユダヤ人のところに訪ねて行き、『こんな国なのに、どうしてまだドイツに住もうとするのか?』と質問する。
そうすると、相手は、その娘たちが生きていた時に町の公園に連れて行って遊ばせた思い出を話し、『逆に訊きたい、ではどこに行けと?』と言う。
この言葉が、主人公が司法の場に戻っていく一つの決め手になるわけで、これはとても大事なセリフだと思った。 ナショナル・ヒストリーに終わっていないと言えるのは、こういう場面があるからだ。
また、最初から主人公に協力してきたドイツ人ジャーナリストが、実は自分もアウシュビッツの兵士だったことを告白するのだが、その彼が、今(その頃)は牧場みたいになっているアウシュビッツの跡地に主人公を連れて行く場面がある。
主人公が、あまりの出来事の大きさに『どんな罰を適用すればいいのか分からない』と言うと、この人は『罰ではなく、犠牲者とその記憶に目を向けろ』と答える。そして二人で、一本の木が立っている下に行き、ユダヤ教の教典のようなものを朗読する(この映画は、日本語訳も、とてもよく出来ていたと思う)。
こうした経緯の後、司法の場に戻った主人公は大量の市民たちに対する告発と審理を開始し、それはやがてドイツ全体の「ナチス徹底排除」の実現へとつながっていくのだ。
「真の和解」とは何かを考えるときに、きわめて示唆に富むシーンだったと思う。


付記:この映画の時代、アデナウアー政権下のドイツについては、最近読んだこのブログの記事と、紹介されている本が、たいへん参考になると思います。
http://satotarokarinona.blog110.fc2.com/blog-entry-674.html