原発市民投票問題について

この件だが、反原発運動の内部でも、ツイッターやMLなどで賛否に分かれて議論になってるようだ。


大阪、原発住民投票を請求へ 署名5万人超える
http://www.47news.jp/CN/201201/CN2012010901001638.html




この件については、自身、疑問を抱きながらも署名集めに尽力されていたモジモジさんが、達成発表直後からツイッターで意見を多く発信されている。非常に的確な発言だと思うので、是非フォローして発信を辿ってください。

https://twitter.com/#!/mojimoji_x



さてぼく自身は、市民投票の呼びかけは重要な行動だと思いながら、ほとんど協力することができず、申し訳なく思っていた。たしか去年の11月頃に聞いた話では、全然署名が集まってないということだったので、目標の数に達するのは難しいだろうと内心思っていた。
だから、先日この目標達成のニュースを知ったときには、署名集めのために尽力された人たちの頑張りに、ほんとうに頭が下がる思いをしたものである。
しかし、そのことについて賛否両論があるということを後から知った。それを知ったときには、ぼくも「それでも、この達成自体がひとつの成果と考えてよいのではないか」という風に思ったものだ。しかし、上のモジモジさんの発言などを読んで考え直してみると、どうもそうは言えないようである。
一部の人だとは思うが、市民投票実現に働きかけた人たちの中に、「賛成も反対もアリです」だとか、「投票の結果原発維持という結論が出れば、それも仕方ない」というような考えがあるのであれば、これはそれに近い感想を持ったぼく自身も含めて、考えを改めなければいけないと思う。


原発に反対」という自分の意志や意見を、いったんは棚に上げて、あるいはしまいこんで、まず話し合いの場を作ったり、意見を聞いてもらう余地を作ろうとする。そうしなければ、頭から拒否反応がかえってきて、そもそも議論にさえならないと思うからだ。
こういうことは、ぼくも始終やってることだから、よく分る。
でもそれは、そもそも議論するためであり、つまりは自分の切実な思いを相手に伝えるためであって、その目的のための手段にすぎないだろう。
しかも、手段としての必要性や有効性も、実際は甚だ疑問なのだ。そういう態度を「手段」と思うことにして選択するとき、すでに他人(相手)や自分自身の幾分かを、信頼せず、裏切り、抑圧してることに気づいているのである。
そういう風にして自分自身の生身の意見や感情(ここでは「原発反対」ということ)を言わば括弧に入れるとき、それは本当はしたくない不誠実なことだと思いながらも、やむを得ず、というより実際は何かに強いられるようにして「賛成も反対もアリですよ」とか「まずは議論が必要ですよね」とか言うのだ。
そうやって、政治的に無色透明な、中立的な「議論」とか「投票」の場を作るわけだけど、ここでは「強いてくる」力に従うことによって、他人との誠実な関わりの可能性というもの、そこにおいてこそ実在する自分の生というものが、抑圧され犠牲になっているのである。
その犠牲の上に、国民的だか市民的だか、要するに排除と抑圧の上に成立する「自由な」集団的意志形成の場が成立するということになる。だがそこでは、私があなたに、私のなかの最も重要で切実なものを伝達する(したがって議論する)可能性は、はじめから断念され、犠牲にされているのである。
これは、原発を生み出し存在させてきた政治空間と、本質では何ら変わらないものだと思うのだ。


原発に反対する、そのことを表明し実現するための手段として「市民投票」があったはずであり、だからこそ、そこにマイナスの可能性もあることは重々承知の上で、協力した人たちが居たわけだ。
それを、いくら原発の存在に関しては民主的な手続きが欠落してきたことが問題であり、また市民的な運動の成果を積み重ねていくことが大事であるとはいえ、それ自体の達成のみで満足し、反原発という本来の目的が二の次にされるようでは、本末転倒もいいところで、絶対に駄目である。


たしかに民主主義も市民運動も、大事なことではあるだろうけど、日本の制限的な「民主主義」や「市民運動」の犠牲にしてはならないものがある。
それは一つには、原発という国家的な暴力によって侵される、他人や家族や自分自身の生命と健康(に対するわれわれの思い)である。
またもう一つには、「市民」や「国民」という権利や実益から様々な仕方で排除されながら、原発の立地や労働を担わされてきた人たちの存在、さらに広く言えば、「市民」や「国民」という仕方で国家・社会と同一化しているわれわれの外側に在って、われわれが特権や利益を享受するための犠牲とされてきた人たちの存在だ。
これまでの日本の民主主義的・市民社会的な空間と呼ばれたものは、この人たちの存在を、われわれ自身の意識から切断することによって形成されてきたものであり、また逆にこの空間の権力が、その排除と差別を隠蔽したり正当化してきたのである。
こうした大きな暴力と、犠牲の構造に対する切実なNOが、反原発ということの本質であり、そのための方途として市民運動も民主主義の要求もあるはずである。つまり、原発への反対は、市民社会や(制限的な)民主主義の要求よりも根本的なのだ。


そして、制度を生きたものにする本当の民主主義とは、自分や自分たちと、その外側に排除されて在る人たちとを結ぶ空間にこそ基礎を置くものであり、別の角度から見れば、生身の人間同士の誠実で切実な感情や意志の伝達を信じるところにしか成り立たないはずのものである。
ぼくたちは、自分たちの権益を保持するための形式だけの「民主主義」や「市民社会」(実際には、国家の権力と論理が支配する社会)を、原発と共に廃棄して、差別と排除に反対し、他者との生身の関係に開かれた真の民主的な社会を作り上げていくしかないところに、今来ているのだと思う。