『サンドラの週末』

ベルギーのダルデンヌ兄弟の新作、『サンドラの週末』を見た。


最初にストーリーをさわりだけ紹介しておこう。
中小企業の工場労働者であるサンドラは、心理的な病気で休職していたが、やっと完治して仕事に戻ろうとする。だが会社は、経営難から、それを受けつけない。
落ち込むサンドラを、パートナーや友人たちが励まし、やっと社長から取り付けた約束は、週明けに職場で選挙を行い、同僚たちに彼女の復職かそれともボーナス支給かの二者択一をさせるという、理不尽なものだった。
サンドラは、葛藤を抱えながらも、十数人居る同僚たちの住所を全て調べ、一人一人訪ねて行って、「ボーナスを放棄して、私の復職を支持してくれ」と頼んでいく。
同僚たちは誰も生活が苦しく、会社や上司に対する気兼ねもあって、快く受け入れる人は居ないのだが・・・。


この映画については、すでに幾つかの好意的な評や記事がメディアに載っている。
とくに、毎日新聞に載ったインタビュー記事は、短いながらたいへん好感のもてるものである。
http://mainichi.jp/shimen/news/20150526dde012200010000c.html
また、主演のマリオン・コティヤールへのインタビューも、読み応えのある内容だ。
http://www.cinemacafe.net/article/2015/05/22/31400.html
そして、これも毎日の記事だが、藤原帰一による評は、この映画の作品としての魅力を的確に表現していると思う。
http://mainichi.jp/opini…/news/20150525org00m200009000c.html


ただ、これらを読んでいて気になったことの一つは、監督のダルデンヌ兄弟にしてもコティヤールにしても、「主人公のサンドラは、ボーナスを選んで彼女の復職を拒んだ同僚たちの気持を理解している」ということを強調している点だ。少なくとも、記事はそういう書き方になっている。
これは、たしかに間違いではないのだが、特に日本の社会の文脈でこういう表現が読まれる場合には、ちょっと注意が必要だと思う。日本では、「相手の立場を理解する」ということは、しばしば自分の気持を抑圧したり、誰かの真っ当な主張にセーブをかけるということに結びつきがちだからだ。
この映画のように、自分に不利な選択をした人たちについて、それが友人や知人であればなおさら、「自分も大変だが、あの人たちも大変なのだから」という風に思うことで、対峙や直面することを回避し、自分が忍従するか消え去っていくことを選ぶというのが、私たちの社会では一般的ではないだろうか。
私が、サンドラの姿を見ていて印象深かったのは、彼女が同僚たちに対して、『あなたが失うのはボーナスだが、私が失うのは仕事だ』と繰り返し言うことだ。
それは、たんに「私に投票してくれ(救ってくれ)」という懇願ではなく、いくら困難な状況にあるとはいえ、それとは比較にならないほどに困難な状況にあなたは同僚を突き落すとことになるのだ、という率直な投げかけである。
ここでは、サンドラと同僚たちとの状況は、「どちらも困難だ」というように対称的に語られてはいない。むしろサンドラは、自分との相手との立場の非対称性を露呈させ、相手に突きつけるのだ。
ダルデンヌ兄弟が言うような、現代社会における「連帯」の可能性が見い出されるのは、おそらくまずここを出発点としてである。
世界の非対称性という現実、言い換えれば、「どちらも苦しい」という言い方で曖昧にするべきものではなく、「生きる為に」というロジックのもとに一方が他方を追いつめることを強いられるような敵対的な構造のなかに、私たちそれぞれが置かれているということ。この現実の露呈と直視からこそ、はじめて開けてくる「連帯」の可能性がある。ここで示されているのは、そういうことだと思う。
そして、もうひとつ大事なことは、サンドラはしかし、その後は、同僚たちに自分を支持することを無理強いしたりはしない、ということである。
『自ら辱むることなかれ』という論語の言葉があるが、サンドラは、自分と相手との立場の非対称性を突きつけ、そのことで相手の心の深い部分に一つの「働きかけ」を行った後は、それ以上は言葉を発さず、その場を立ち去る。
その態度には、相手の「自由」を尊重し、それに期待する、根本的な友愛の感情のようなものが、うかがえるのではないかと思う。