サルトル『ユダヤ人』

彼は、社会が悪いことを理解し、しかも、正統でないユダヤ人の素朴な一元論に、社会の複数論を対立させる。彼は、自分が別もので、触れてはならぬもので、恥かしめられ、追放されているのを知っていて、そういうものとして、自分の権利を主張するのである。(p169)


ユダヤ人 (岩波新書)

ユダヤ人 (岩波新書)

岩波新書のなかでももっともよく読まれているもののひとつだと思うこの本には、昔からどうもすんなりと受け入れられない部分があった。
それは、サルトルユダヤ人を「正統(authentique)なユダヤ人」と「正統でないユダヤ人」に分けていることである。


この本でのサルトルの基本的な主張は、「反ユダヤ主義ユダヤ人を作る」ということである。これは、本質主義構築主義か、といった話とは違うと思う。
ユダヤ人という民族的な同一性が問題になっているのではなく、多くの人々(国民)の「ユダヤ人」という差別・排除の対象を作ろうとする眼差しがユダヤ人を苦境に追い込み、その苦境がユダヤ人にさまざまな特徴的な性格や生き方を強いることになる。その定型のようになった性格や生き方をさして、人々は「ユダヤ人とは、ああしたものだ」と決めつけるように言うわけだが、それを作り出しているのは、反ユダヤ的なマジョリティー大衆の方なのだ。
反ユダヤ主義者がユダヤ人を作る」とか「ユダヤ人とは、他の人々が、ユダヤ人と考えている人間である」(p82)というのは、そういう意味である。
民族的とか生物学的な同一性があろうとなかろうと、それよりも(眼差し、欲望による)社会的な規定の方が決定的な要因になっている。ここでのサルトルの立場は、そういうことであろうと思う。


それはそれとして、サルトルは、そうしてマジョリティによって作り出される苦境を、自分の状況として引き受けようとするのか、それとも回避しようとするのか、という区分を立てる。
前者が「正統なユダヤ人」であり、後者が「正統でないユダヤ人」であるというわけである。

もし今、われわれの考えるように、人間とは、状況における自由体であるということが認められれば、その自由が正統である(authentique)か否かは、それが、自分の生まれ出た状況の中において、如何に自己を選択するかによって決まることになろう。正統性は、言うまでもなく、状況を、明晰且つ正当に自覚し、その状況の内在する責任と危険を引き受け、誇りをもって、あるいは、辱恥にかえても、そして時には、恐怖や憎悪によっても、その状況の権利を主張するところにある。従って正統性が、非常な勇気を要し、更に、勇気以上のものも必要とすることは、疑う余地がない。従って、非正統性の方が、むしろ一般に拡がっているのも、驚くには当たらないわけである。(p111〜112)


非常に勇ましい文章だ。
正しいことを言っているのだろうが、どうも気に入らないところがあった。
ひとつには(これだけを理由としてあげるのは、やや奇麗事になるが)、発言者自身がマジョリティーとして属する社会のなかで差別を受ける立場、それもあの大虐殺を経験した直後のユダヤ人たちに対して*1、「正統でない」とか、勇気が云々というような言葉を投げかけるのはあんまりだ、という気がしたのだ。


だが、最近思いついて読み直してみたところ、印象が変わった。
たしかに、言い過ぎという面はあるかもしれない*2
だが、ぼくはこれまで大事なことを読みとれていなかったことに気がついたのだ。
それは、上にも少し触れたが、サルトルが「勇気以上のものをもって引き受ける」というふうに言うとき、その対象は属性や集団的な同一性ではなく、(実存の)「状況」であるということだ。


この本で彼が言う「ユダヤ人の状況」とは、じつは「見すてられ」、苦境におかれた個別の人間存在一般の「状況」の象徴のようなものだと言える。それに相関して、彼が分析し批判する自国の「反ユダヤ主義」というものも、差別や排外主義一般の構造の象徴のようなものになっている。
だから、サルトルが「ユダヤ人であること」という状況を引き受けよ、というとき、それは普遍的な意味のこめられたメッセージであって、ユダヤ人という属性や集団に関わるものでは実はない、という受取り方が出来るのである。


だが、このことにはややこしい注釈がいる。
「状況」としての「ユダヤ人であること」と、「属性」としての「ユダヤ人であること」の区別が出来るのかということ、これは非常に複雑な問題なのである。
その理由のひとつは、ユダヤ人が差別のなかで置かれた位置が、彼(彼女)に否応なく「ユダヤ民族」とか「ユダヤ人全体」という観念のなかで自分の行動と責任を考えることを強いる、ということである。
次の一文は、この点についてのサルトルの認識の深さを示していると思う。

だが、ユダヤ人でなくなることを選ぶことは出来ないのである。(中略)ユダヤ人たること、それは、ユダヤ的状況に突きやられ、そこに「見すてられる」ことであり、また、同時に、ユダヤ民族の運命と性質そのものに、自分自身の中で、自身の人格により責任を持たねばならぬことなのである。(p110〜111)


一口にいうと、「属性」と「実存」とを自由に切り離せるのは、マジョリティーの特権のようなものである。サルトルは、そのことに恐ろしく敏感だ。
そしてここに、危険も生じる。つまり、「正統なユダヤ人」という表現が、そしてその概念が実存の普遍的な価値に重ねて語られているということが、ユダヤ人という属性や集団がその被害のゆえに特権視されることに繋がったり、民族性というものの美化に結びつくような誤解が生じてくる余地が、ここにあると思う。


だがともかく、サルトルはここでは、個としての「状況」の引き受けということが、「属性」の引き受けということから区別できるということ、そして実存の「状況」としての「ユダヤ人であること」を引き受けることこそ大事だ(正統だ)、ということに「賭けた」のだと思う。
だから、上に引いたような「正統性」についてのサルトルの言葉も、それを頭に入れて読むべきではないかと、思うようになったのだ。
サルトルは、「正統でない」という言葉は、『如何なる道徳上の非難も含むものではない』(p115)と明記している。この但し書きの意味が、じつはずっと分からなかった。
今思うと、これは、彼が「引き受けること」(正統性)を、「道徳」という共同体や集団に関わるような場に結びつくものとしてでなく、あくまで個人の実存(生身の生き様)の状況とのみ結びつけて考えたことを示しているのだろう。
ユダヤ人であろうとなかろうと、他人の生き様を傍目から「道徳」の名において非難するような詰まらぬ了見を、一切持っていなかったということである。
そういう場から書かれた言説としてみるなら、上記の「正統性」についての表現がはらむ激しさも、違う要素が見えてくるのではないか。


だが、それにしても、この本でのサルトルの思考は、矛盾と葛藤にみちたものに思える。
サルトルが葛藤のなかで考えようとしていることの要点は、「見すてられ」ている目の前の他者に対する責任であり、またそうした状況を引き受けることを、他者の実存というよりも、むしろ自分自身の実存の条件としてとらえる、といったことだったのではないだろうか。
しかし、この二つのことは、容易に重なるものではない。
問題は、次の点にあると思う。
サルトルは、過酷な、そして極限的な状況にも置かれてきたユダヤ人というマイノリティー、他者の状況を、マジョリティーであるサルトル自身がそこに包摂される「人間一般」の普遍的な実存の状況と重ねられるものとして捉えようとしている。だが、この二つはそのままでは重ならない。
サルトルが生きている状況と、ユダヤ人が置かれてきた状況とは、非対称であるといえる。その非対称性に対する自覚が、サルトルを葛藤に投げ込み、そして非対称性にもとづく空間としての「社会」のなかでの自分を認識することへと、彼を向わせている。


それは、この本において、自分たち(マジョリティー)にこそ「ユダヤ人問題」についての真の責任があるということへの、非常に強い自覚に示されている。

(前略)われわれが彼を強制して、ユダヤ人としての自己を選ばせたのであり、彼がユダヤ人としての状況から逃避しようと、ユダヤ人としての権利を要求しようと、こうした、ユダヤ人の非正統性と正統性のディレンマに、彼を追いやったのもわれわれなのである。(中略)こうした事態においては、われわれのうちでひとりとして全く責任のないもの、犯罪者でないものはいない。ナチスが流したユダヤ人の血は、われわれすべての頭にふりかかってくるのである。
 ユダヤ人は自由である。彼には正統であることを選ぶという道が残されているではないか、と人はいうかも知れない。たしかにその通りである。しかし、第一に理解しなければならないのは、それが、われわれの嘴を入れるべきことではないということである。囚人は、鉄条網を突破するのに命がけであることさえ承知すれば、逃亡する自由を持っているわけだ。しかし、それで、獄吏の罪が軽減されようか。(p168〜169)


サルトルが、本当に指弾し非難しているのは、差別を続けてきた「反ユダヤ主義者」であり、そればかりでなく自分たちマジョリティー全員の「獄吏の罪」なのである。
この本の最後の章のタイトルは、「ユダヤ人問題はわれわれの問題だ」だ。




そこで冒頭に引用した文章に戻るのだが、ここではサルトルは、「正統なユダヤ人」に託して、人間すべてのあるべき実存の姿を語っているのだと、ひとまず言える。
知識人が、マイノリティーに「かく生きるべし」と託宣を垂れているのだと考えなければ、この言葉は強い。
そして、この言葉は本当は、サルトル自身を含めたマジョリティーに向って、あるべき生き方を指し示すものなのではないだろうか。そう読み取ったときに、このメッセージは、われわれのなかでもっとも生きたものとなるように思うのである。
彼の後輩の思想家たちの言葉をまねて言えば、マイノリティーへの生成変化、マイノリティーとして生きよ、抵抗せよ、ということ。


いずれにせよ、この短い本は、大戦後のあらゆるマイノリティーへの差別をめぐる議論と、ユダヤ人の存在をめぐる言説の出発点をなしたものとして、今なお必読の価値をもっていると思う。


まとまらない長文、最後までお読みくださった方は、ありがとうございました。

*1:この文章の発表は1947年、しかも驚くべきことに、一部は戦時中に書かれている

*2:それは、彼が「正統性」を「抵抗」と不可分のものとして考えていることに関係しているような気がする。