軍事と日常

数日前の記事になるが、これはやはり考えさせられる内容だった。


広島・海自隊員死亡:「自分は意識飛んだ」元同僚証言 相手16人に教官「手抜くな」

http://mainichi.jp/select/jiken/archive/news/2008/10/18/20081018dde041040032000c.html


教官の言葉や「訓練」の実態、それに死亡者を出した今回の場合、武道経験があまりない隊員にこのような「訓練」を課したという事実のひどさに、あらためて衝撃を受けるが、それ以上に、同様の経験をして怪我をしたという「元同僚」の次のような言葉。

一方で「集団暴行・リンチ」などと報道されていることに違和感があるという。「部隊の特性上、課程を終えた同期生たちは日々、『死』を覚悟して生きていくことになる。一般の人には分かってもらえないかもしれないが、同期生らが去っていく私に真剣に付き合ってくれてうれしかった」と話した。訓練終了後、正座してみんなにあいさつした時泣きじゃくり、同期生たちも泣いていたという。


たしかに、この世には「死を覚悟」せざるをえないような過酷な仕事、状況というものがあるだろう。
ことは軍事に限らない。たとえば山岳救助のような仕事。実際、日本の自衛隊の重要な職務の一つは*1、そうした救助活動にあるといえよう。
そのほか、医療にせよ、建設にせよ、いや人間の営みのあらゆる場で、そのようなぎりぎりの集団性は生まれうる。
そういう仕事や場においては、特別な一体感なり、個々の人の心理が生まれるだろう事は、あくまで想像だが、ありうるだろうと思う。
そこには集団内部の人にしか分からない心のあり方が、きっとあるであろう。


だが同時に、そうして育まれた強固な集団性の心理が、受ける必然性のない不当な処遇や暴力に対して人が持ちうる、抵抗感や憤りや怒りといったものを自ら抑え込む効果を発揮しうるということも、やはり疑えないのではないかと思う。
今回の一連の(二つの)集団暴行事件が起こされた状況は、「死を覚悟」することとは、直接には何のつながりもない。
そこでは、行使される道理も必然性もない不当な暴力が行使されたのであり、その原因にはやはり隊員たち個々への不当な(非人間的な)処遇があったと、ぼくは考えるが、「死を覚悟する」というような思いいれの強さが、そうした事実を(被害者を含む)個々に意識させないための装置として働いている。
上の「元同僚」の言葉を読むとき、ぼくが感じるのは、そのことだ。






軍隊の存在の是非は別にして、それが現実に存在する以上は、法や制度の下で認められた存在であり、税金と国の予算によって成り立っているということを前提として考えねばならない。
つまり、軍隊や自衛隊は、無法集団でも治外法権でもありえない。法と制度のコントロールの下に置かれるべきであり、そのことに合致するように運営・管理される必要がある。
軍隊に限って、そのことが不可能であるとは思わない。
だが、とりわけその実行が難しくなる理由はあるのかもしれない。
このような事件が起きることは、それを示しているのかもしれない。
軍事的な組織に、いわゆる民主的なルールをどう貫徹させるか、軍隊の存在をめぐる議論とは別に、これは追求されるべき課題だ。


軍隊(自衛隊)という組織に、とくに顕著に示されている、この民主的なルールの介入と相反するような環境、その現われとして、今回のような事件を見ることが出来る。
それは、こうした組織の論理が、人間の意識や考えをある形に変えていこうとする性質を持っていることと、関係しているだろう。


先の「元同僚」の言葉に戻って考えよう。
集団の中の同志愛のようなもので結ばれ、傍目には非道な集団的暴力であると思えても、そう認めることが被害者自身にも困難であるような環境、状況。
自衛隊のような組織に限らず、暴力や虐待の多くは、こうした心性において行われるものなのだろう。


明確な肉体的暴力に限らず、たとえば労働現場における非人間的なひどい待遇や上司の暴言といったものも、過酷な条件のなかで働く者同士の(傍目には非合理な)「仕事」の達成に向かう一体感や、自己のプライドにより、それが非道な暴力・搾取といったものだという事実は、しばしば当事者によって否認される。
自分の選択、誇りや、同志との強い精神的絆といった想像物が、自分が置かれている状況の不当さと被っている暴力の過酷さとに意識が直面しないための、言い換えれば自分の存在がある仕方で毀損されているという不快きわまりない事実を認めずにおくための方途として持ちだされるのである。


「自分は虐げられ、人間として扱われておらず、ひどい暴力や搾取にさらされている」という事実を認めることは、当人にとってとても辛いことだ。
ひどい条件のなかに置かれている人ほど、自身の状況の不当さを認めたがらないという心理は、もちろん理解できる。
ぼく自身にも、少なからず身に覚えはある。
そうなってしまうのは、それを認めることで、社会や他人の中におけるむき出しの自分というものと向き合い、その自分を引き受けざるを得なくなるからだ。
それは、たしかにしんどい。


軍隊のような組織は、「死を覚悟する」状況に人を向かわせねばならないという性格上、とりわけこうしたメカニズムを巧みに用いて、人から人間性の或る側面を奪い取っていく性質を持ちうる、とは言えるだろう。
おそらくこの剥奪によって、(戦場において)他人の生命を損ねるという行為に対する心理的な壁も、より容易に飛び越えられるように、人の心理を構成しようとするのだ。
それは、人の視野を極端に狭めさせ、命令への服従と集団への同一化のなかに人を押し込めることで、「敵」とされた他人の命をより容易に奪えるように仕向ける。




だが、このように人を追い込んで、集団(職場)の論理に同一化させることで思考を閉塞させ、より容易に「敵」を攻撃できるように人を改造していくことが「軍隊的なシステム」と呼べるとすれば、今のぼくたちの社会は、すでに十分「軍隊化」しているのではないだろうか?
ぼくたちの社会は、すでに十分兵士を生産しうる社会になっているのではないか。直接軍隊や戦争に結びついていなくても、すでに人間の存在のある部分を毀損するという意味で「非民主的」「軍隊的」な社会である、と言えるのではないか*2


だから今回の事件のようなことや、この「元同僚」のような心理は、ぼくたち自身の問題でもある。
「軍隊」という存在に何らかの悪(非人間性)があるとしても、その悪の核心は、他ならぬこの非軍事的な社会のただ中に根を持っている。
暴力を感謝と共に甘受するのは、ぼくたち自身の心性だ。そして、この心性は、容易に他者を殺すことへと向かい(向けられ)うる。




上の「元同僚」の言葉からは、さらに考えるべき、数多くのことが示唆されていると思う。
たとえばぼくたちはなぜ、こんなにもしばしば「死の覚悟をもって」という風な言い回しを、日常のなかで使うのか、使わざるをえない状況に置かれていて、その状況へと疑問や怒りを差し向けないのか。
また、本当に死地に直面した人たちの心情、個人としての心のあり方と、そこでの他人(同志)たちとの心のつながり、そしてそれ以上に、「敵」の生命や心との関係を、どう考え直し、確保するべきか。
だが今は、そこまで考えていく余力がない。

*1:必ずしも自衛隊がやる必要はなく、別組織にした方が憲法上の制約なく海外協力も出来ると思うが、なぜかそうなっていない。

*2:先に書いたことを繰り返せば、全ての軍隊が必ず「軍隊的」であるとまでは言いきれないし、言い切るべきでもないだろう。