『ネオリベラリズムの精神分析』

ネオリベラリズムの精神分析―なぜ伝統や文化が求められるのか (光文社新書)

ネオリベラリズムの精神分析―なぜ伝統や文化が求められるのか (光文社新書)


この本(特に前半)では、一般にたいていは批判的な意味をこめて「ネオリベラリズム」という言葉で語られる現在の社会のあり方が、「再帰性」と「恒常性」という二つの概念をキーワードにして論じられている。


再帰性」というのは、本書中では

自分自身を意識的に対象化し、メタレベルから反省的視点に立って自己を再構築していくこと。自律性をもって新しさを自ら生み出していくこと(p14)


と定義されている。
一読して分かるように、「より高い再帰性を目指す」ということは、別にそれ自体が悪いことというわけではない。
では、無条件にいいことか、と聞かれると微妙だが、われわれは概ね「再帰性の高さ」を求めざるをえない現実のなかに置かれている、という事実を、必ずしもネガティブにならずに認める方がよいのだろう。
再帰性の高さ」を求めない社会や生存のあり方を生きるということも、ある条件のなかでは可能だったわけだが、現在の世界においては、それはなかなか難しくなったということである。


再帰性を追求する生き方(社会)の良い面としては、たとえば、こういうことがあると思う。
高い再帰性は、ある人を、自分と自分が帰属する集団との関係に対して反省的にする。つまり、自分が帰属する集団から自分を切り離すこと、距離を置きつつそこに有意義にコミットすることを可能にする。
今日のような人の流動性が高まった社会においては、個人はある集団から他の集団へと、しばしば帰属を変える。そのとき、それぞれの集団において、この個人はそのなかで自分の持ち味を生かし、また集団へのコミットを通して集団に利益をもたらし、自分が愛する人たちに対して、その都度貢献することが可能である。
このような「同一性(帰属)からの自由」は、再帰性こそが可能にするものである。
これが、「平和」のための重要な要件でさえありうるものだということが分かるであろう。


が、同時に再帰性には多くの難点があると思われることも確かである。
再帰性が個人の生を帰属や伝統から引き離すものであるとすれば、そこには個人と集団との間の分離あるいは齟齬のようなものが生じそうだ。個人はその能力を高めて自分の利益のみを追求し、社会の他のメンバーの生活や生存の危機さえも省みなくなる、という心配が生じる。
また社会全体のあり方も、その拡大として、社会の総合的な利益(生産性)の拡大のために、社会保障などの公共的な部分を削り、また生産に直接結びつかない文化的な部門を不必要な余剰のように見なして切り捨てていく。
実際、現在日本を含む各国の社会で言われている「ネオリベラリズム」の社会への批判とは、そうしたものだろう。
自分の利益追求のための競争にのみ専念し、「再分配」など気にもとめない人々と組織、制度。


だが、本書の見解によれば、そうした状況は、むしろ(人間にとっての)「再帰性」の非本来的なあり方としてとらえるべきものである。
再帰的な主体が、自分の利益のみを追い求めて、世界や他人との共存的な関係というおのれ(再帰性)の基盤となる原理(「恒常性」)を切りくずしてしまうのは、創造性も柔軟性も失った「貧しい再帰性」と呼ぶべきものであり、いたずらな形式合理性の追求による実質合理性の否定とであると、著者は断じるのである。
つまり、人間という不透明さを根底に持つ存在において、再帰性の十分な活動とは、その基盤に「恒常性」を内包することなしには不可能な事柄なのである。

人間が新しいことに挑戦するためには、他者や世界への信頼が不可欠なのである。(p13)


実際、「再帰性」という概念には、もともと次のような難点があることが知られていたという。
われわれが再帰的な主体になるためには、一定の教育や文化のもとで親など周囲の大人たちとの非対称的な関係をとおした形成過程が必要である。
再帰性を評価する議論は、主体が合理性や論理性、高度な知性を持つことを前提にしているが、この「再帰的主体の形成過程」を、その議論の内部では問えないのである(p66)。
つまり、再帰的な主体の十分な存在や機能を、個の再帰性それ自体だけで捉える(構成する)のは無理で、その基盤となるべき他者との関係の領域を考慮にいれなければならない。
人間という存在の不透明さゆえに存在するこの(再帰的主体の)基盤となるべき領域が、すなわち「恒常性」の名で呼ばれるのである。


以上のことは、個人レベルで言えば、確かに再帰性は、他者との社会的関係の場において見れば個体間の能力の差異や、権力の非対称性を含意しているとはいっても、真に優れた再帰的主体は、恒常性(他者との共存的な地平への配慮、感覚)を内包しているはずだ、ということになるだろう。
世界のどこに行っても通用するような高度で創造的な再帰性をもった個人は、自分の心のなかになんらかの想像上の共同的空間(「ホーム」)への配慮(感覚)を持っているはずである。むしろそれこそが、人間にとっての再帰性を有効なものとして駆動する。そういうことなのではないかと思う。
ここでは再帰性という特殊的な価値は、再帰性を越えるより根本的な人間的価値によって内実を与えられ、「再帰性の高い個体にもまた」より良き(共存的な)生の権限が分与されているとも言えそうである。


したがって、この(再帰性の基盤となるべき)「恒常性」を、どのように確保するかということが重要な問題になる。
著者の分析をぼくなりにまとめれば、たとえば安倍政権時代の路線は、ネオリベという形式合理性の破壊的な力によってもたらされた「恒常性」の危機を、「伝統」や「秩序」のようなもうひとつの原理的なものの導入によって乗り越えようとするものだった、ということになるだろう。それはたとえば、「挨拶運動」のような、形式としての社会的儀礼の励行ということによく示されていた。また「美しい国」とか「愛国心」という理念的な言葉の多用(押し付け)にも、それはあらわれていた。
ある種の原理主義による恒常性の復元という意図が、そこには見られたのである。
だが著者によれば、「恒常性」において本当に重要であるのは、言葉や形式の根底をなしている他者への「信頼」と呼べるような領域である。
「信頼」や「存在論的安心」(ギデンズ)といった言葉によって示唆される、人間の知性や言語の、またしたがって再帰性の追求によって構築・推進されていく資本主義などの人間の文化的営みの基底をなすともいえる、この「恒常性」の真の要件としての「信頼」の意義について語られた部分が、この本でもっとも印象深いところである。
そのなかでも、ぼくが感銘を受けたのは、とくに次の箇所だ。


子どもが少しずつ言葉を習得していく際、重要になるのは、「X(何か)」という空項が子どもの心理の中にあるからだという。
「蝶」を見たときに「桜」という言葉を口に出してしまった子どもが、それを(たとえば)母親に訂正されたとき、「桜は蝶でない」(もしくは「桜は蝶だ」)といった形式的理解で終わらずに、「桜は蝶のようである」(「留保的措定」)という世界の広がりや深さに通じていくような言語習得が可能になるのは、「X何か」という空項を措くことができる他者(母親)への信頼が根底にあるからだ、と言われるのだ。
これはぼくの言葉で言えば、この世界は私が経験したり想像したりできるものによってだけ充たされているわけではない、というかすかな感覚のようなものではないかと思う。その感覚が、世界のなかに可能性を開くのである。
実はぼくにも十分に理解できなかった箇所なのだが、感動した部分なので引いてみよう。

何かが真実であるといきなり決定的な形で措定されるのではなく、試行錯誤のなかで間違いが否定され、その中で真実が成立していくのが人間の言葉や情報の獲得過程である。ここでこの否定はいきなり外に現われるのではなくて、潜在的なものであることに意味がある。
 ところが、ある種の統合失調症者では否定が顕在化する。これに対し健常者では、先に見た留保的措定があるので、「桜は蝶ではない」という顕在的否定にはならず、「桜は蝶ではない」という潜在的否定に留まり、何か別のものという留保、存在の肯定と保持がなされる。
 人間において言葉が何とでも結合し、驚くほどの可能性をもつのは、カストリアディスも示唆していたように、このXという留保的措定ができるからである。留保的措定は、他者によって支えられる(今はわからなくてもすべてを知っている母がいつか教えてくれるという期待において)。また、現実的には時間によって支えられる。未来とは他者であり、だからこそ他者が解体すると時間が解体するのである(時間とはフィクションであるから)。(p130)


いわば主体の世界への創造的な受容と関わりを可能にする機能である「留保的措定」は、「他者によって支えられる」。言い換えれば、他者への信頼、それと重ねあわされたこの世界への信頼が、私という主体の創造性の基盤となる。
ここで言われているのは、そのようなことではないかと思う。
「留保的措定」を可能にするような他者とは、私にとって何らかの同一性の範疇におさまるものではないということ、つまりその都度新たに見出される他ない「他者」であることは、ぼくには疑いのないことであると思える。



本書の後半では、宗教や、マスコミ、若者のコミュニケーション、ネットの空間など、再帰性の暴走による共同体の破壊のなかで、なんとか生の空間を維持しようとする現代の人々の姿が幅広く、かつ綿密に分析・考察されている。
それらも非常に多くの示唆に富むものである。
本書は、最近の新書としては破格ともいえる分量と内容をもつもので、本文中で「文化」の重要さを繰り返し強調している著者の、意気込みを十分に伝える好著となっていると思う。