留保しないことの意味

きのうの記事のブクマコメントのなかに、「正当性」「正当化」という語の用法が曖昧なところが良くないのではないか、という趣旨の意見があった。
たしかに、その通りだと思える。
そこで、この点からはじめて考え直してみる。
大きく二つのことを書くが、この二つは、重ならないのだが、どちらも重要なことであり、間違っていないと思う。


ひとつは、こういうことである。
きのうも書いたように、たしかにこの暴動は「正当」な怒りの表明であるとぼくは思っていて、だからこそ「無条件に支持する」と言っているわけである。
この「正当さ」と、「無条件の支持」(留保しないこと)との間に、ぼく自身の(社会構造に関わる)倫理的な意識は介在していない。つまり、そこを媒介しないでも、「無条件の支持」は言えるし、言うべきだ。
このことは、きのうまでに書いた文章では、混乱があったかも知れない。


だが、暴動を「正当」であるという場合、その言明によって消し去られてしまうものがあることに、ぼくはこだわっている。
つまり暴力を何かの形で「正当化」(正当さでなく)する場合に覆い隠され、なかったことにされるようなものである。
それは、暴力を行使している、あるいは行使されている当の人たちが経験している体験、感覚、感情、つまり暴力の事実性のようなものだと思う。
これは、その暴力が「正当」であることによっては、あがなわれない、なかったことにされるはずのないもの、されるべきでもないものだと思う。
唯一、「なかったことにする」権利を持つ人がいるとしたら、それは、その当事者(たち)自身しかないであろう。
「正当な暴力」という政治的な言い方に反対するのは、この意味においてである。


ところでここで、ぼくが同時に問うべきだと思うのは、では、「もっとも暴力的な者は誰か」ということである。
人を差別や放置・傍観などをとおして、暴力へと追い込み、さらにまた被暴力へと追い込んだ、ぼく自身を含めた多数の非当事者の倫理的な責任ということが出てくるのは、ここにおいてである。
人を暴力や危険のなかに追い込んでおいて、他人事のようにそれを批判したり、揶揄したり、あおったりしている人間こそ、もっとも暴力的ではないか。
そこを問う必要は、間違いなくあるし、それを経由しなければ、暴力が生み出される構造に対する批判は成立しないだろうとも思う。
社会に対する批判を行うためには、その批判を行うもの自身の倫理性(内在化された構造への批判)が不可欠だろう、ということ。





だが、そうした倫理的な物言いには、難点もある。
これが、言いたいことの二番目である。
それは、このように構造や倫理を言うことが、具体的に起きている暴力の状況、つまり警察による労働者等への圧倒的に非対称な暴力の行使という現実の不正義を、見えにくくする場合があるということだ。


この立場から、「暴動を無条件に支持する」という言明について考えてみよう。
ここで支持に「条件」を付けることが、なぜ不当なことなのかというと、それは「妥当な方法なら」とか「過剰にならなければ」とか「事実に基づく限りは」というふうに条件(留保)を付けることが、自分が結局は釜ヶ崎の人たちと同じ場に立って行動を支持しようとしないこと、行動を起こさざるをえなかったこの人たちが置かれているのと同様な「非安全な」(危険も批判も被ることのない)場に立たないための口実、アリバイのようなものになるからである。


「非安全」な場とは、釜ヶ崎の人たちが置かれてきた、むき出しの非対称な暴力の場であり、そこから逃れるために、自分たちの安全と尊厳を守るために、この人たちは声をあげていると、ぼくは考えるのだ。
このむき出しの現実のなかに、自分もまた生きていることを直視し、引き受けるなら、この「正当な」行動に対する支持は無条件のものとなる以外ない。
これは、社会の構造のなかで自分が置かれている位置への反省ということを越えた、絶対的な倫理性のようなものではないかと思う。


要するに一人の人間としてあるために、ぼくはこの暴動を起こした人たちと共にあろうとし、その行動への支持を表明するのである。




付記:最後に、きのうのエントリーのなかでは、暴動に参加した人たち自身の危険、負傷といったことに言及できなかった。
生田さんのホームページにあるように、多くの人が警察の暴力によって負傷している模様で、「暴動を支持する」(ぼくのような)人の責任を言うなら、まずこの人たちの被害に関して、直接的な責任を負うと認めるべきだろう。
警察の暴力・対応が非難されるべきなのは、論をまたない。
警察は、なんらの謝罪も話し合いも行わないままに、暴力と威嚇によって、人々を押さえ込もうとした。つまり、弾圧に他ならない。
逮捕者は十数人に及んでおり、唯一詳しく報道された労組委員長の(道交法違反容疑による)逮捕も、抗議・暴動をおさえこむための恣意的なものと考えざるをえない。
このような警察の強権的な態度・行動を、あらためて強く非難する。


生田さんのホームページから。
http://www1.odn.ne.jp/~cex38710/thesedays13.htm

釜ヶ崎解放会館による抗議の声明。
http://kamapat.seesaa.net/article/101013847.html