『パレードへようこそ』

シネリーブル梅田で『パレードへようこそ』を見てきました。これは良かった。
http://www.cetera.co.jp/pride/


LGBTだけじゃなくて、労働運動というか労働者の闘いがこんなにポジティブに(というだけではないけど)描かれることは、今の日本ではまずないので、それだけでも好いなあ、と思った。
最後の場面で、主人公たちがゲイ・パレードで炭鉱労働者への連帯のメッセージを掲げようとしたら、主催者みたいな人が出てきて、「平和的なパレードだから、政治的なメッセージは困る」と言われて排除されそうになるところは、ああいうのは日本だけかと思ってたけど外国でもあるんだなあと、変に感心した。
それだけに、その直後の展開は、さすがの私もウルウルであった。
その他では、私の感動したツボは、たとえば、16歳の時に母親にゲイだということをカミングアウトしたら家を追い出され、それ以来、何十年も故郷のウェールズに帰っていないという青年が、そのウェールズの炭鉱で運動をやってる女性と電話でそのことを話していて、ずっと英語で喋ってるんだけど、最後に女性がウェールズ語で「メリークリスマス」というと、青年もウェールズ語で答えた場面。あそこは、ウェールズ語が長い間イギリス政府から禁止されてたこととか、歴史的な事情を知ってると、すごく深いものに感じると思う。
主人公の、最初に炭鉱労働者との連帯ということを言い出す、すごくアクティブなゲイの青年が紛争地の北アイルランドの出身だということも、これは事実がそうなのかどうか分からないけど、大事な設定だと思った。


映画は、とくに前半はあっけないぐらいアップテンポで進むので、正直、ちょっとついていきにくい感じもあった。
たとえば、ゲイの仲間たちの集まりで炭鉱労働者と連帯しようという話が最初に出たときに、一人の男性が「私は学校の頃、彼らにいつも殴られた。帰り道でも殴られた。」と言って出て行ってしまうシーンなどは、すごく深刻な話で、たとえばケン・ローチ監督なら最低15分ぐらいはかけるだろうが、この映画では一瞬で終わってしまう。そこがちょっと面食らうのだが、段々に色々なことを感じさせ考えさせる筋立てになってるのである。


それと、全体的に思ったのは、同性愛者に対する差別・偏見というのは、(これは全ての差別について言えるかもしれないが)一つの側面としては、差別する人自身の自己抑圧のようなものが背景にあるということだ。「同性愛者」という他者が、自分が耐え忍んでいるような制度的な規範を守らず、奔放に振る舞っている人のように見えるので、その相手を攻撃するのである。その底には、社会のコードを脅かす力(それは自分自身の内部にもあるわけだが)に対する、制度的な恐怖の感情のようなものがあるのだろう。
特に家父長制的・家制度的な家族の論理とか、組織の論理といったようなものが支配しているところでは、「同性愛者」のような惑乱的と見なされた人々が集中的な攻撃や隠微な排除の対象になりやすい。
その一方、イギリスの炭鉱労働者の運動にしても、舞台になっているウェールズの民族的な運動にしても、(桁違いなほどに強固な)コミュニティの力に支えられていると言われている。ということは、その反面で、そのコミュニティの論理に合わないような人間に対しては、排除的に振る舞う可能性が高いということでもあるだろう(実際、この映画の大半は、そうした地域社会や家族の排他性との葛藤がテーマになっている)。
だがそれは、上に書いたような差別のメカニズムとは、ちょっと違っている。社会全体のそういうメカニズムに幾分かは感染し、それを反映してしまっている面もあるだろうが、元々はそれらのコミュニティは、支配的な社会の力に対する人々(少数者)の抵抗を支えるために作られた集団だからだ。
だから、そこには本来は、同性愛の人たちのような、異質な被抑圧的立場の人々に共感したり連帯する力が秘められているはずである。
この映画は、そういう開かれて行く集団の可能性を、しっかりと捉えて描き出していたと思う。