性と自由意思

http://mainichi.jp/area/news/20130525ddn013040059000c.html

性感染症の予防も労働者側が自己防衛するほかなく、女性は定期検査に行くなどしていたが、3カ月前に感染症にかかり休職中だ。女性は「リスクを承知で働いているのではと言われるが、自由意思で働くことと、労働環境が守られることは別。行政トップがこうした現状を見ずに活用を勧めるのは、能天気すぎる」と批判する。

そもそも「自由意思」として性労働が成り立ってしまうような社会とは何か、ということがある。
性は、元来商品(賃労働の材料)とされて良いものだろうか。
それを商品として成立させてしまっているもの、また、それを商品とすることを女性に余儀なくさせているものは、広義には現在の社会構造(貧困と性差別、性の対象化)であり、狭義には男性優位的に構成されている性欲のあり方ということになろう。
この社会構造と性欲のあり方とは、国家や企業や家族といった諸制度への個人の同一化を介してつながっている。この同一化において、新自由主義的な今の社会で特に推奨されているイデオロギーは、一言でいえば「攻撃性」だろう(たしかにこの意味では、「軍隊と性」の問題は、現在の社会一般に通じる要素をもっている。)。
女性(性的対象である他人)を、たんなる欲望充足のための対象としか見ないような男たちの視線は、それ自体が制度化された攻撃性の形態であるが、それがなければ、女性が自らの性を商品とすることが「自由意思」として成立することは、そもそも無いはずなのだ。


つまり、この「自由意思」は、客観的には社会(男たち)によって強いられたものでもあり、それを強いることによって社会や男性の側は、支配の仕組み(制度化された性欲とか、家父長制とか差別的な雇用の実態、あるいは社会保障の不十分さといったもの)を変える責任をネグレクトしているのだ。
このネグレクトが行なわれないなら、女性の性も労働(生活)も、そして自由(個としての生存)も、今よりははるかに解放されたものになるだろう。
当然ながら、それは結果として女性だけにとどまる解放を意味しないだろう。だがいずれにせよ、ネグレクトを中止する責任があるのは、支配する位置に立っている者たちの側である。