『『ショアー』の衝撃』

このところ、シネ・ヌーヴォで『ショアー』を見ているので、かなり昔に読んだこの本、『『ショアー』の衝撃』を再読した。

『ショアー』の衝撃

『ショアー』の衝撃


この本が出されたのは、『ショアー』が日本で公開され大きな反響を呼んだ1995年。つまり、20年前だ。
この映画が完成されてフランスで上映されたのは85年らしいから、それから10年後に、この本にも登場する人たちの尽力があって、遂に日本でも上映された。
本書を読むと、当時の時代背景も色々と思い出される。ひとつ言われているのは、この上映が実現した背景の一つには、「戦後50年の節目」といったことに加えて、当時社会的な事件となったいわゆる「マルコ・ポーロ事件」の影響があったということだ。この事件によって、ホロコースト歴史修正主義についての関心が、日本社会全体に高まったということがあった。
また、当時の上映運動の動機の一つに(沢山の人たちに見られた理由の一つだったかもしれないが)、当時大ヒットしたスピルバーグの『シンドラーのリスト』におけるホロコーストの描かれ方へのアンチテーゼ、ということがあったようだ。このスピルバーグ作品の名前は、本書中に何度となく出てきて、(ランズマン当人を含めた人たちによって)批判されている。
さらに、もっと本質的なことで言うと(ここでは、この本の前半を形成している鵜飼哲高橋哲哉岩崎稔の三氏による「徹底討議」だけを取り上げるが)、たとえば鵜飼哲氏の次のような発言に、現在につながる当時の社会状況がよく表れていよう。
いわゆる「壁崩壊」前後の出来事や湾岸戦争などにおける報道のあり方(意図的な「誤報」による情報操作)が大きな役割を果たした、歴史修正主義的な気分の世界的な蔓延について、次のように言われている。

(前略)あらゆる情報の形成・発信・伝達・受容がメディアの介在なしには成立しないような状況があり、そのただなかで歴史的真実とはいったい何だということが疑われてきている。一言でいえば、このようなニヒリズムの一段階レベルの上がった深化のなかで、否定派の人々の策動がマージナルなものとはいえ、無視できない存在感をもってきているということです。これがだいたい現在までの経緯だと思うんですね。
 ですから、たんに糾弾するだけでなく、なぜこのような策動が可能なのか、その可能性の条件とはいったい何なのかということが問われなければならない。(p51〜52)

戦後の日本に一貫して存在した保守政治家たちの反動的・右翼的発言や圧力、当時はまだ十分に見とおせなかったネット社会における没倫理的・排外的言論(ネトウヨ)の不気味な膨張といった、特殊日本的な条件以上に、この本(討議)では世界的な文脈のなかで、歴史修正主義の台頭という問題が考えられている。たとえば、「壁崩壊」以後にもてはやされたフクヤマなどの「歴史の終焉」言説が、歴史修正主義との間に哲学的な共通基盤を持っているのではないかという、ジャック・ランシエールの見解が紹介される。


また、この本の主題である、映画『ショアー』そのものについては、とくに、高橋哲哉氏の次のような発言が重要だと思う。

しかしランズマンは、さらに一歩踏みこんで、この事実の経験のなかにある証言不可能な部分、表象不可能な部分を問題にする。そしてそういう証言不可能、表象不可能なものをもなおかつ証言しなければいけない、証言不可能性、表象不可能性だけでも証言しなければいけないというメッセージをぼくは感じるわけです。証言不可能、表象不可能な経験を、むしろそういうものとして伝承しなければならないという視点を出しているんじゃないでしょうか。(p72〜73)

この映画が体現していると思われる、証言や表象の不可能性の認識は、もちろんそれ自体は真っ当な考えであるだろうが、倫理的な体裁をもった「沈黙の正当化」という効果を生み、結果として歴史修正主義(支配者・加害者による言論の封殺)を利することにつながる危険をもつ。
この映画でランズマンが示したのは、あえて危険(暴力性)をおかし、証言の力を行使して「語りえぬもの」の領域に踏み込むことで、その証言行為の挫折を通して、生の体験における「証言・表象不可能なもの」(最も大事なもの)の実在を、見る者に感知させるという可能性であったと思う。
このことは、たとえばこの映画における証言についての鵜飼氏の、『仮にそれが事実と違っていても、それもやはり別の何事かを語っているわけで・・』(p115)という発言と重ねて読むなら、証言という行為が何よりも、聞く側の倫理性こそを厳しく問いただすものだということを、改めて思い出させるものだと言えよう。


ところで、ここで特に書いておきたいのは、鵜飼氏の次のような発言に関することだ。
鵜飼氏は、広島・長崎に対する原爆投下とホロコーストとの間には、決定的な違いがあることを強調する。というのは、前者では、原爆が投下された国が日本であることには、加害者・被害者間の歴史的関係(構造)にもとづくような理由はなかった。つまり、それがドイツになる可能性もあったし、状況次第でどこの国でもありえた。核爆弾の被害ということは、それが次にはどこ(の国)に起きてもおかしくない事柄だったからこそ、「ヒロシマ」は世界的な言葉となったのだ。

それに対してホロコーストの場合は、殺されたのはユダヤ人ばかりではないということはどこかで押さえるにしても、じゃあなぜ民族で言うとユダヤ人や「ジプシー」であったのか。犠牲者が誰であったのかということとこの歴史的な犯罪の本質との間に不可分の関係を想定せざるをえない。(中略)このことを日本の文脈でとらえ返すと、たまたま日本が西洋と同じような大国になろうとしていたときに、そのときたまたま隣に朝鮮や韓国があったから侵略して殺したということでは通用しないわけです。もっと深い、中国や朝鮮との歴史的な関係があって、独特の差別意識がその虐殺の背景にあったんじゃないかと、そのへんに踏み込んだ議論をやっていかないと、少なくとも八〇年代にヨーロッパの「戦争の記憶」に関して問題にされた領域に踏み込んでいけないんじゃないかと思います。(p98〜99)

これは、私も今回『ショアー』を見ながら考えていたことで、最近では、ホロコーストの犠牲者が必ずしもユダヤ人ばかりでなく、ロマや障害者や共産主義者など、多様な人々を含んでいたということが強調されることが多いが、それにはもっともな理由があるにしても、ホロコーストという出来事に関する何か大事なことが、それによって抜け落ちてしまうのではないかということを、この映画や他のランズマンの作品から考えざるをえなかったのである。
犠牲者である「ユダヤ人」という存在の、いわば特権性が浮上してしまうということは、もちろんよく言われるように、この映画やランズマンという作家の持つ非常に危険な側面であることは間違いなかろう。
だがそれにしても、ユダヤ人と呼ばれる特定の民族集団の絶滅が企図され実行に移されたという要素を軽視したのでは、この出来事の決定的に重要な意味を消去することになってしまうのではないか。その仕草は、どこかナチスが意図したものに似ていなくもないような気がするのである。
もちろん、「ユダヤ人だけが」という言い方は、事実としても正確ではないし、政治的にもきわめて危険だろう。だが、その不正確な言い方によってしか表せないような何かが、この歴史上の出来事には含まれているのではないか。
私には、『ショアー』という映画が、ランズマンのもつある種の暴力性によって、私たちに突きつけてくるのは、一つにはそのことだと思えるのだが、それを明確にはどう考えたらいいのか分からなかった。
上の鵜飼氏の言葉は、それに答えを与えてくれていると思えたのだ。
討議では、そうした意味でホロコーストという出来事のサンギュラリテ(独異性とでも訳せばいいのか)を強調する鵜飼氏に対して、岩崎氏が、それをユダヤ人という被害者の特権化につながりかねないものとして反論し、議論になる。そこで高橋氏が、両者の意見を下のように見事に整理し、それを受けて鵜飼氏が、こうコメントしているのである。

高橋 要するに、サンギュラリテということで何を考えるかという問題でしょうね。たぶん岩崎さんの懸念は、被害の経験のサンギュラリテを強調していくと、どんどんその“絶対化”に近づいていって、“唯一無比”を主張する同士の「記憶の戦争」がエスカレートしていってしまう、そういう状況じゃないかと思うんです。でも鵜飼さんがおっしゃるのは、そういうエスニックな、またナショナルな記憶を特権化したアイデンティティの構成のほうにいくのではないようなある種のサンギュラリテなんでしょう。

鵜飼 だから犠牲者のサンギュラリテというよりは、被害者と加害者の関係のサンギュラリテだと思うんですね。ヨーロッパのキリスト教社会と言っていいかどうかわかりませんが、それとヨーロッパ・ユダヤ人はどちらか一方がなければ成立しない歴史的な存在なわけで、その関係とはいったい何であったのかということが、まず事実をきちんと明らかにすることから始められなければならない。(後略)(p104)

まさしく「関係のサンギュラリテ」ということが重要なのだろう。
先日感想を書いた『ショアー』第二部でいえば、あのヘウムノの教会のシーンでランズマンが浮き彫りにしようとしたものも、ヨーロッパにおけるキリスト教社会とユダヤ人たちとの関係の独異性のようなことだったと思う。人が生きていく上で、現実に背負っていて、そのなかで生きざるを得ないような関係性の重さ。
その独異性が否認され消去されようとしたときに、抹殺や絶滅という言葉に近づくような出来事の条件が生じる。ホロコーストが教えているのは、一つにはそういうことではないだろうか。
鵜飼氏はまた、やはりランシエールの、次のような見解に関して述べている。

否定論者の論理は、要するに、そんなことはあり得ないと、こういう条件があった以上こんなにたくさん人が死ぬことはあり得ないということを信じ込ませるような作文をするわけですね。ところが問題は逆で、あり得ないことが起きたということを確認するところからしか歴史的思考は始まらない。そのあり得ないことが起きたという、出来事の光のなかで初めて明らかにされるような犠牲者と加害者の関係があるわけで、出来事の一回性とサンギュラリテはそういう意味で切っても切り離せない。(p106)