差別や偏見を意図して作り出す人たち

すでにご存知の方が多いと思うが、東京の公設派遣村に関するマスコミ報道の、調査不足による不正確さが、問題になっている。


「200人無断外泊」などという報道がなされているが、それは朝食を食べた人と夕食を食べた人との差ということで、そのなかの多くの人は、都内でアパートを探していたために夕食に間に合わなかっただけであるという。
それが、「無断外泊」として報じられているのだ。
支援団体は、都に対して、正確な数字を公表するように要請しているが、報道発表どころか、厚労省にすら数字の提供を拒否しているとのこと。


都がそうした態度をとる一方で、「入所者のモラルを問題にする」と称する、石原知事のこのような発言がなされているのだ。

http://sankei.jp.msn.com/life/welfare/100108/wlf1001082255002-n1.htm


こうしたマスコミの「調査不足」の報道の背景には、職のない人や野宿者に対する差別や偏見の存在を指摘する意見があり、それはその通りだろうと思う。
だが、都の態度と、石原の発言とを考え合わせれば、これはたんに「差別や偏見が原因」というだけでは言い尽くせない性質の状況だということが分かる。
原因と結果を逆にして考えるべきなのだ。
つまり、政治家や行政の意図と、それに従うマスコミの報道とが、差別や偏見を作り出す「原因」なのであり、現実に起きていることや人々(われわれ自身)の心理は、むしろその「結果」である。


そもそも、都はなぜこのような情報操作のようなことをするのだろうか?
それは直接には、国の政策としての「派遣村」を代替的に運営することの負担から逃れたいからだろう。石原の発言は、行政の公共的な役割(社会保障・再分配)を放棄していこうとするネオリベ的な発想に基づくものと言えるが、「派遣村」が都の財政を圧迫すれば行政サービスの低下につながりかねないというような都民の不満にも訴えかける、というより炊きつける効果を持つものだろう。


だがさらに、入居者たち(その多くは「生活保護を申請しようとする人たち」でもある)の世間的なイメージを低下させ、また「真面目な人」「不真面目な人」という線引きを、入居者の間に行うことは、きっと別の意図を持つ。
それは、一般市民と失業した人たち、失業した人たち同士、さらには一般市民の間に、偏見と不信と対立の種をまき、それによってネオリベ的な統治を容易にする、ということである。
差別や偏見は、基本的には、それを必要とする強力な人々が居るから、社会にはびこる、ないし現実的な力を持つのである。


派遣村をめぐる行政の動きや報道は、すでに「国内的な難民問題」の性格を帯び始めているが、それはもちろん、これから先に起こりうる多くの事態へのシミュレーションでもあるだろう。
情報操作によって作り出され、扇動された人々の不信や憎悪がどこに向うか、今日もその見やすい事例が海外から報告されている。

http://mainichi.jp/select/world/news/20100111k0000m030059000c.html

イタリアの失業率は10%だが、南部では20%を超す。地元民は低賃金で重労働の農業を嫌い、移民と職を奪い合うことはない。だが、ベルルスコーニ首相は度々、「イタリアは多文化じゃない」「最近、町が汚い。ここはアフリカじゃない」などと移民排斥感情をあおるような発言を繰り返しており、社会には失業を外国人のせいにする風潮が広まっていた。


社会不安がまずあって、それを解消するためにレイシズムが高揚するということではなく、むしろネオリベ的な統治を容易にするために、操作と扇動によってレイシズムを含むさまざまな心理や偏見が政治的に増幅され、暴力を伴う社会不安が醸成される。そういう回路が、ここには透けて見えている。
その最終目的は、「統治しやすい新自由主義的な社会の形成」といったところだろう。


この権力の力は、われわれから連帯が可能であるような他人の存在の重要さの意識を、拭い去ってしまう効果を持つ。
われわれの重要な隣人たちの生存を保障するために、われわれは社会や公共的なシステムを形成したはずだが、それがもはや無用なものだという意識を持たせようとするのが、現代の権力というものだ。
その力の最終的な目標は、孤立した薄っぺらな、われわれ自身の生または死であり、自他の生存と命の価値についての感覚の死滅だろう。


そして、この東京という都市では、かつてこのような公権力による扇動によって、(関東大震災のときだが)多くの人命が失われたことを、われわれは知っている。
そのことが、さらに多くの人命を奪うことになる「戦争」の時代を確実に準備したはずである。
いま目の前で起きている、公的な情報の操作や扇動的な発言が、われわれ全ての生命をないがしろにし、直接に損なうものでもあるだろうことは、こうした過去の例からも確かめることが出来るだろう。