暴動を無条件で支持する

連日続いている釜ヶ崎での抗議・暴動に関して、「どんなことがあっても暴力はいけない」という批判がある。
それに対して、これまで警察や社会全体から、釜ヶ崎の(労働者をはじめ)人たちが受けてきた迫害、差別の持つ暴力性はどうなるのか、という反論がありうる。


だがこの二つの意見は、本来対立するものではなく、「暴力」に対する批判ということでは同じ立場である。
釜ヶ崎の人たち(という集合名詞自体が、すでに暴力的だが)が経験してきた怒りや苦しみを慮った上であれば、「どんなことがあっても暴力はいけない」という批判の言葉は、「暴力」を恣意的に選別して自分に都合の悪い種類の暴力のみを非難することによって、虐げられている人、自分が現に虐げている人の怒りの表明や抵抗・抗議を、したり顔で抑圧するという、浅ましい(真に)暴力的な言明とは、まったく異なる真実の言葉となるだろう。
実際には、そうでない場合の方が、ずっと多いのだが。


そうした深い意味合いで「暴力」への批判を口に出来るほどの人なら、機動隊に向かって逮捕覚悟で怒りの声をあげたり、行動で示したりする人の、時には振るう「暴力」が、心底振るいたくて振るったものではないということに、思い至るはずだ。
その暴力を、その人の生活・生命を賭するような形で行使させている、その状況を作っている自分たちの暴力性こそを、ぼくたちは恥じるべきなのだ。
たとえば、暴動のもたらす高揚が、警察の暴力や、世間の差別と無視(放置)の暴力を受け続けてきた人にとって、「祭り」のように感じられることがあるとすれば、少なからぬ野次馬たちがそれに似た感情を抱くのとは恐らく違って、それを「祭り」のようにしか感じられない過酷な日常がある、ということの証である。
絶望的な暴力においてしか、人間としてのぎりぎりの誇りの表現、感情が表明される場を持ちえないということは、なんと残酷な剥奪だろう。その剥奪を日々行っている、それによってこの人たちの多くを死に追いやっている、自分たち一般市民の意識せざる暴力性を、まず恥じよと言うのだ。





抵抗や怒りの表明としての正当な暴力と、ときには弱者にも差し向けられる過剰な暴力とは、明確に区別しきれるものではないだろう。
だから、暴動に対する支持や肯定に、なにかの条件を付けることには意味がない。「過剰にさえならなければ」とか「正当な行使でさえあれば」と付け足すわけにはいかない。
暴力の行使を、弱者に対して振るわれることのない、正当な範囲に留めるかどうかは、虐げられてきた、いや、ぼく自身が追い詰めてきた当の人たちだけが決しうることである。
ぼくにはただ、「無条件で支持する」としか言えない。そう表明することを引き受けるしかない。
代わりに逮捕されたり、暴力を身に受けるわけにもいかないので、この場で出来ることは、そのように書くことだけが精一杯だ。


現場には、釜ヶ崎の労働者や元労働者の人たちとは関係のない、駆けつけて便乗的に騒いでいる人たちも少なくないのかもしれない。
その人たちにも、暴動に加わるなとは、言わない。ただ、虐げられてきた人たちと、怒りや何らかの気持ちを、ほんとうに共有できると思ったときにだけ、自分が決めた行動をとってほしい。
その町でずっと暮らしてきて、やむにやまれず実力行使に及んだ人たち、それを懸命に止めている仲間の人たちの気持ちを無視して、自分の不満や衝動だけで実行に及ぶことは、連帯ではなく、これまであなたが行使してきた「無視」や「差別」という市民的暴力の延長でしかないのだから。


大事なことは、その場においてあなたがどのような行動をとっても、あるいはとらなくても、虐げられた人たちへの「市民的暴力」が行使され続ける日常を変えない限りは、あなたと、この人たちとの距離は、決して縮まることはない、ということである。
この「あなた」とは、もちろん、ぼく自身のことでもある。
差別を受ける人、虐げられる人への、その生存と状況への無視、無関心は、「社会的な悪」というだけではなく、われわれに内在している。
放置して死に至らしめても仕方のない存在として誰かを考えること、身近な誰かが(肉体的のみならず)視線や言論の社会的な暴力に日々さらされていても、日常のなかではやむをえないことだと思うこと、そしてとりわけ、自分自身の生存について、そのような虚無的な感覚を持ってしまうこと。
それらが、「市民的暴力」を可能にしているのである。


そしてこの暴力は、追い詰められた他人を、死か絶望的な暴力に追いやるばかりでなく、それに加担し行使させている、ぼく自身、あなた自身を侵食し、社会のすみずみに、より凶悪な暴力の種子をまき散らす。
釜ヶ崎の人たちが発している怒りの声は、そのより悪しき暴力に抗うための連帯をこそ、ぼくたちに呼びかけているのだ。


付記:今回の事態に至った主たる責任は、警察の態度・対応にあると今も考えている。弱者をより凶悪な暴力の噴出から守るという実践的な観点から、警察には(批判だけでなく)猛省を促したい。だが、ここではそういったことにはあえて触れなかった。