『ウォークス 歩くことの精神史』

これは恐ろしく読みごたえのある本だった。原著の出版は2001年頃。

 

 

 

書いてあることの要点は、ひとつには、著者が重視する「歩行の文化」とは、西洋近代において、特に産業革命以後の社会と身体への疎外に対抗して切り拓かれてきたものである、ということ。英国や米国など、各国の歴史(社会史・文化史・運動史)を振り返るのだが、その闘争の軌跡というのは、同時に、女性にとっては「自由に道を歩く」という数千年の家父長制下で抑圧されてきた(今も「先進国」を含めて抑圧され続けている)権利を奪還する道のりでもあったことを書いているのが、この著者らしい視点であろう。

 

『その意味で、歩行は所有のアンチテーゼである。歩くことは、大地において、動的で抱えこむもののない、分かちあうことのできる経験を求める。流浪の民は国家の境界を曖昧にし、穴を開けてしまう存在としてナショナリズムに敵視されることが多かったが、歩くことは、私有地というやや小さなスケールの相手に対して同じことをしているのだ。(p269)』

 

『ただしそのなかで、市場の女たちはありふれた市民のありふれた行為によって歴史を動かしてみせた。行列をなす何千という女性たちはまもなく訪れる陰惨な日々をまだ知ることもなく、ヴェルサイユへ向かって歩みながら、あらゆる権威の下で身を低くして過ごした過去を乗り越えていった。世の中が自分たちとともに立ち上がり、恐れるものはなく、兵士たちもまた自分たちの後に続く、そんな一日を彼女たちは生きたのだ。歴史の揺動に砕かれる穀物ではなく、むしろ挽き臼のようにして。(p373)』

 

『似たような経験のなかで、この一件はただその脅しの重みによって記憶に刻まれている。自分には戸外で人生や自由や幸福を追求することが本当の意味では許されていない、ということの発見にわたしは人生でもっとも打ちのめされた。世界にはわたしの性別のみを理由にわたしを嫌い、傷つけようとする他人が大勢いて、性はあまりに容易が(ママ)暴力へ転化してしまい、そういったことを個人的な問題ではなく社会的な問題だと考えている者はほとんどいないという発見でもあった。(中略)ひとりで歩くという願望は、彼女たちの心からすでに失われているのだ。しかしわたしにはまだそれがある。(p405~406)』

 

この本では西洋近代における闘争としての「歩行の文化」ということに、意識的に主眼が置かれているので、それ以外の、例えば東洋の伝統的な「歩行」に関しては、やや歴史性を欠いた像になっているのは、やはり気になる所ではある。

 

 

ところで、著者自身の運動上の経験として書いてることで印象的だったのは、彼女は80年代の反核闘争から政治運動にコミットしたそうだが、なかでも91年に米国各地で沸き起こった湾岸戦争反対の行動が、特権的なほど大きな経験だったと書いていること。それは、80年代の運動の世界的な広がりの帰結点のように捉えられてるのだが、その80年代の運動とは、ソ連・東欧圏の「崩壊」をもたらした市民(反体制)運動の勝利の経験でもあった。つまり、著者の世代にとっては、「壁の崩壊」という出来事は、(それ以前、及びそれ以後の世代にとってのように)「資本(新自由主義)の勝利」としてではなく、「民衆の勝利」という意味合いが大きかったのだ。これは、(今のウクライナ侵攻への反応を考えても)かなり大きな特徴ではないかな、と思った。

それから、戦後の米国社会の決定的な変容を示すものとして、1970年に、初めて多くの人々が自分たちは「郊外住宅地」に住むことになったと意識し始めた、という調査が紹介されている。「郊外住宅」は、労働(生産)と生活(消費)との分離を決定づける形式であり、そこでは歩行者の身体よりも、自動車の利便の方が優先され、身体はとことん排除・周縁化される街づくりが遂行される。そこで培われる感覚は、やがてゲーテッド・シティや「敵基地攻撃能力」の自明化にも結びつくものだろう。

この「郊外住宅地」のイメージとして、僕は先日歩いた千里丘陵の家並みを思い浮かべたのだが、ただ歴史を調べてみると、意外な発見もあった。普通、千里ニュータウンというと、マンモス団地をイメージするだろうが、実は当初(千里ニュータウンが生まれたのは、僕と同じ1962年だが)から、集合住宅(団地)と戸建て住宅との割合は、大体半々だったという。つまり、戸建て住宅による米国的な「郊外住宅地」化が突如始まったということではなく、ある時期までは、それも含めて「コミュニティ作り」への模索がなされていたのだろう(今でもニュータウンの各所には「近隣センター」の看板が見られる)。その様相が大きく変わって、コミュニティの衰退が言われるようになったのは、日本では80年代中頃のバブルとその崩壊にともなう、団地と戸建て住宅双方の「建て替え」が急増した頃だったようだ。まさにこの時期に、日本(大阪)でもネオリベへの布置が敷かれ、維新の台頭への種もまかれた、というわけだ。