『沈黙を破る』と緊急報告会日程

十三の第七芸術劇場で土井敏邦さんのドキュメンタリー『沈黙を破る』を見た。
たいへん、力のある作品。
http://www.cine.co.jp/chinmoku/
http://www.cine.co.jp/php/detail.php?siglo_info_seq=112
(映画の感想の後に、元イスラエル兵の方による報告会の日程を載せました。)


この映画は、案内記事などでは、「占領を続けるイスラエル兵士と社会の内面の苦悩を描く」みたいになっていたが、実際にはイスラエル兵士の姿・証言と、パレスチナの人たちの姿とが、半々ぐらいに描かれており、その対比からもさまざまなことを考えさせられる。


全体をとおして、イスラエルの兵士や市民の心理については、「これはよく知っている社会だ」「自分が日常的に属している社会だ」という印象を受ける。
弱者、他者への力の行使と、暴力に対する無感覚が増幅されていく日常、それを強いる圧力は、すでにこの日本社会を覆っていると思えるからだ。
だが、パレスチナの社会については、そうではない。そして、パレスチナの社会の方が、圧倒的に人間的であるという感じを受ける。


また、イスラエルの兵士たちが声を上げること自体には、(それはさまざまな理由からきわめて困難なことだとはいえ)実はそれほど大きな効果はなく、市民の考えが変わり声を上げなければ何も変らないだろう、ということも分かる。
しかし、イスラエルの社会においては、市民を動かすには、兵士、それも主流派に属する階層出身の兵士たちが声を上げる必要がある。それが結果として有効でないとしても、それ以外に道はない。それをせざるをえない。
そういうことのようだ。
かつて占領地でやはり多くの暴力を振るう経験をし、今は告発の運動をしている元兵士の一人が、自分の両親を含む市民たちに向かって、「自分たちは、あなたたちの拳だったのだ」と言う場面があり、この言葉が、もっとも心に残った。


それと、これは映画の本筋にはあまり関係ないのだが、ジェニンの難民キャンプが総攻撃を受けた直後の映像で、瓦礫の山になった自宅の跡地から、埋もれてしまったなけなしの貯金、日本円で300万円ぐらいの現金を掘り出そうと奮闘しているおじさんが出てくる。
この人が、たいへん印象的だった。
本人の雰囲気と風貌のせいもあるのだが、なにかマカロニ・ウェスタンの一場面みたいでもある。
だいたい、こうした場面をとらえたドキュメンタリーや報道では、いつも肉親を失って嘆き悲しむ人の姿や、住居を失って途方に暮れる人の姿が出てくるもので、もちろんこの映画にも、そういう人たちが数知れず出てくる。
だが、現金を必死に探してる人というのは、ぼくははじめて見た。
この人の場合、自分や家族に幸い肉体的な被害がなかったらしい、ということはあるのだが。


しかしもちろん、これは生きるうえで切実なことだ。
この人は、自分は公務員ではなく塗装職人なので、年金がもらえないから、どうしてもあの金はあきらめるわけにいかない、と言っていた。
奥さんや美しい娘さんが二人と、障害のある息子さんなど、家族の暮らしもあり、これはたいへんな事であろう。

しかし、生きていかなくてはならないから当然のことだが、その探している金にいつもでも執着するのでもなく、しばらく探してどうしても見つからないと、落胆を抱きながらも、元の仕事に戻って元気に(懸命に)暮らしている姿が、最後に紹介される。
その突き放されるほどの力強さのようなものが、とても印象深かった。


また、映画のはじめに登場する別の難民キャンプの青年は、イスラエルの攻撃を受け軍に包囲されている日々の中で、「議論や読書や散歩といった日常の営みをとおして、自分たちはこの支配と闘っているのだ」という風な意味のことを言う。
この言葉も、とりわけイスラエルの人々の姿と比較するとき、多くのことを考えさせる。



付記:映画の上映にあわせて、今週末から、作品に登場している元イスラエル兵士の方が来日され、東京と関西でお話をされるとのこと。
以下の土井さんのホームページに日程と場所など詳細が載ってます。
http://www.doi-toshikuni.net/j/p-doc/info/noam.html