『自由と壁とヒップホップ』

イスラエル国内や占領地で、音楽と言葉によって生きるための戦いを続けるパレスチナラップミュージシャン達の姿を描いたドキュメンタリー、『自由と壁とヒップホップ』を、十三の第七芸術劇場で見てきました。
全編アラビア語のラップミュージックが背景に流れるスマートで躍動的な構成と、そこで描かれる、現実感がなくなってしまう程に壮絶な暴力と差別の現実に圧倒されて、見ている間、息もつけないという感じでした。
http://www.cine.co.jp/slingshots_hiphop/


イスラエル領内のパレスチナ人には、「48年組」と「67年組」と呼ばれる、二通りの人達が居るということを、初めて知った。「48年組」は、1948年のイスラエル建国の時に、住んでいた村や町を追われたが、イスラエル内の他の場所に移り住むことになった人たちの子孫。一方、「67年組」は、1967年の第三次中東戦争イスラエルに占領されたガザ地区ヨルダン川西岸地区という、占領地に住んでいる人達。この両者は、どちらも酷い差別や迫害の中に置かれていることは同じでも、状況や文化などに大きな隔たりがあることが、映画を見ていても分かる。
そこから両者、特に「48年組」の人たちには、複雑な思いが生じている。
映画では、この二つの環境を生きるパレスチナ人の若者たちの交流と熱い連帯感と同時に、そこで生じる心のひだのようなものも、繊細に描かれていた。
また、イスラエルの体制のパレスチナ人差別はもちろん酷いのだが、それと重なるようにしてあるパレスチナ人(アラブ人)社会内部の女性差別の問題の重さも、きちんと描かれている。


イスラエルパレスチナ人は、バスに乗っていたり、町中を歩いたり、検問所を通るとき、普通はアラビア語ではなく、公用語ユダヤ人の言葉であるヘブライ語を使うことが多いそうだ。
アラビア語を喋っていると、差別されるというだけでなく、すぐに警察が尋問して来たり、兵士に威嚇的に視線を向けられたり、検問所を通してもらえない、ということがあるからだ。
映画に出てきた若者たちは、それに抵抗して、あえて町中でアラビア語を話そうとするのだが、自分の存在を隠さないという当たり前なことが、これほどの覚悟を必要とするという現実の過酷さを思わずにいられなかった。
パレスチナ人であることが、そのまま危険分子、「テロリスト」であるかのように見なされ、直接的な弾圧の対象にされ、殺されたり、何年、何十年も投獄されてしまう社会。
これは日本のわれわれにとって、すぐ眼前に迫っている光景ではないだろうか。


ラップを、表現の手段にし、また自分たちなりの政治的抵抗の手段にしようという、彼ら・彼女らの試みは、イスラエルによる過酷な支配と、その下で閉塞させられているパレスチナ社会の現実への、二重の抵抗になっているのだと思った。
巨大な力による支配や迫害は、それに抗おうとする人々の内部にも、さまざまな閉塞を生じさせる。だから、巨大な力への直接的抵抗と同時に、身近に引き起こされる硬直や差別からの解放の戦いも、行なう必要が出てくる。
この若者たちにとっては、それが、(パレスチナ社会にとっては敵とも考えられる)アメリカ合衆国の黒人たちが生み出したラップミュージックへの(抵抗の音楽としての)共感による自己主張なのだ。
それは単純に、「音楽によって壁を越える」というようなこととは違っている。
実際、占領地に作られた、あの巨大な分離壁を前にして、ガザの若者たちは、無力感だけを語る。
『無力さを感じるのは、この壁が巨大だからではない。この壁の背後にある力の巨大さのせいだ。その力を前にした、世界の沈黙のせいだ。』


イスラエルという国家の根底に深く刻印された排除と差別の思想、そこから来る共生の不可能性、度重なる占領地への軍事的攻撃・破壊と圧迫、そして国際社会の無関心。
これが、パレスチナ人がその中で生きて行かねばならない現実の実像であり、この若者たちが闘っている当のものだ。
「政治」と無縁なラップなんて考えられない、と彼ら・彼女らは言う。
芸術や表現を、政治的抵抗から分離して楽しめるような優雅な特権は、彼らには許されていないのだ。そうしたものは、われわれも加担して形成されているこの世界によって、彼らから奪い取られたままなのである。
だがそこには、人間にとって音楽や表現というものが持つ、ほんとうの力や意味のようなものが示されているのではないか。一人のラッパーの青年の父親で、自身も伝統的な音楽を演奏し、抵抗運動による投獄経験もある老人は、息子のやっていることについての感想を聞かれて、満足気に答える。
『音楽を正しく用いているから、私も嬉しい』と。


映画の最後に流れる曲の歌詞では、「自国から追い出されればどこに行くのだ」というようなフレーズが繰り返されていたが、このフレーズ、そして「自国」という語には、いくつもの意味が重ねられているのだろう。
イスラエルに生きるパレスチナ人にとって、「自国」とは何か?
それを考え続けることは、在日朝鮮人差別という深刻な現実に向き合うべき僕たちにも、要請されていると思った。


映画は大阪で上映中の他、8日からは渋谷アップリンクで、また京都みなみ会館など各地で上映予定。