『ぼくたちは見た-ガザ・サムニ家の子どもたち』

古居みずえさんの新作、『ぼくたちは見た-ガザ・サムニ家の子どもたち』の大阪での上映が、23日までだったのですが、その最終日に観に行ってきました。

http://whatwesaw.jp/


古居さんの前作『ガーダ パレスチナの詩』については、以前に感想を書きました。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20060528/p1


今回の映画では、2008年から09年にかけてのイスラエル軍による大規模なガザ攻撃のなかで、一族29人が一度に殺戮されたサムニ家という大家族の子どもたちの、「攻撃」後を生きる姿が、中心的に描かれています。
自分の親や幼い兄弟、親戚たちが、目の前で無残に虐殺される光景を見た子どもたちの体験と心の世界は、想像することもできないものですが、古居さんは、(前作と同様に)その子どもたちの日常に寄り添いながら、一面の瓦礫に変わってしまったガザの町並みのなかでカメラを回し続けます。
この作品は、あの出来事から2年近くが経った今だからこそ、そして特に今年の3月11日以降の新たな現実を生きている多くの日本の人たちにこそ、見られるべき作品であると思いました。
その内容については、ここでは多くのことを書かず、感想を二つだけメモしておくことにします。




そのひとつは、この映画を見て、「パレスチナ/イスラエル問題」は「日本問題」でもある、ということをあらためて実感したということです。
圧倒的な力の非対称のなかで、これだけの憎悪に満ちた暴力がふるわれ(今も基本的な状況は全く変わっていない)、その実情を知っている人も少なからず居ると思えるのに、日本ではいまだに、この問題について、「暴力の応酬」とか「憎悪の連鎖」とか「どちらにも責任がある」というような、欺瞞的な言い方がまかり通っている。
それは、この現実に関わっている自分の責任を忌避する態度であり、それこそが、このパレスチナの悲惨な現実の継続を支えているのだと思います。


重要なのは、こうした欺瞞的な態度(気分)が、この問題に限らず、いまの日本の社会を生きるぼくたちの意識の隅々までを覆っているものだ、という点です。
原発の存在が、これほど大きな被害をもたらしつつあり、その存在の非合理さや危険がはっきりしたにも関わらず、いまだにそうした現実(リアリティ)を否認し、「経済の面から原発の存続はやむをえない」といった主張が、「現実的な」という形容詞のもとに語られている。その欺瞞的な「現実」の論理のもとで、放射能汚染の危険や、政府・東電の賠償といった、真に差し迫った現実的な事柄への関与が忌避され、そうやって責任を免れた従来の権力のもとで「変わりのない日常」という虚構を生きることに、ぼくたち自身が次第に適応してしまう。
こうしたことは、生命や生活を自ら否定し、暴力的な支配に同一化することを選ぼうとする、ぼくたち自身の精神の退廃を示しており、まさにその退廃こそが(現実への倫理的関与の忌避という形で)、イスラエルの暴力を支え、パレスチナの子どもたちを苦しめ続けている。
こうした意味で、直接にも間接にも、日本の社会を生きるぼくたちの生は、パレスチナの人々が置かれた現実とつながっていると言うしかない。
この映画を見ると、あらためてその、ぼくたちの日々の持つ意味について、自覚せざるをえません。
それが、この問題が「日本問題でもある」ということの意味です。




もうひとつの感想。
登場するサムニ家の子どもたちのなかでも、とりわけ強い印象を残す、一人の少女が居ます。
彼女は地域の学校に通うときにも、周りの学友たちと違って、イスラム教徒の女性が頭から巻く白いスカーフのようなものを身につけていません。これは想像ですが、もともとスカーフを巻くことや、信仰に対して距離感を持っている少女だったのではないかと思います。
彼女は目の光などから、自我や感情の人一倍強い子なのではないかと想像されるのですが、やはり凄惨な出来事(親兄弟を眼前で虐殺された)のショックから、情緒がひどく不安定で、しばしば強い怒りに襲われると言い、「自分は笑ったことがない」とも言う。
また、自分の顔を黒く塗り、「イスラエル兵になりたい(同一化したい)から」というようなことも口にする。この奇妙な行動の意味は、ぼくには分りませんが、想像を越える暴力に襲われた子ども(たち)の心の傷の深さ、あるいはそこから何とか回復して生き延びていこうとする葛藤の激しさがうかがわれ、言葉を失ってしまうような場面です。


さて、映画の後半で、それから半年後の、その彼女の姿が映し出されます。
一面の瓦礫だったガザの町のそこここで、細々とながら、石造りの家屋の再建が始められている。
彼女は今では、スカーフ、ただし花柄のスカーフを頭部に巻き、コーランを熱心に読んでいる。拠り所として信仰に心を向けるようになったようです。
その彼女が、インタビューされて、このように答えます。


『自分は、イスラエル兵の一番嫌がることをしたい。それは信仰を持つことであり、文化を育むことだ。』


正確には違うかも知れませんが、ぼくは概ねそういう意味の言葉だったと記憶しています*1
この言葉は、どのように解釈すればよいか。
いや、ある意味では解釈の必要はないし、むしろ解釈するべきではないのでしょう。
これは、少女が生きるために選んだ言葉、いま掴んでいる表現であって、それを解釈することは誤謬であるだけでなく、ひとつの暴力であるかもしれません。
それでもぼくは、この言葉が含んでいる意味について考えてしまう。


これはたしかに、一つの強い抵抗の意志を示した言葉だと思える。
その抵抗の核心とは、「忘れない」ということにあるのではないだろうか。
何を忘れないのか。
まず第一に、それはイスラエル軍が根絶やしにしようとしたもの、パレスチナの人たちの信仰や、生活を含めた文化を、(自分のものとして)守り抜いていく、ということでしょう。
花柄のスカーフを巻き、荒らされ根こそぎにされたオリーブ畑に苗木を植える彼女の姿は、それを象徴しているといえる。


しかし、そればかりではないかも知れない。
彼女が「忘れない」と決意する対象のひとつは、イスラエル軍イスラエル兵が行った行為ではないか。その記憶は、もちろん(受動的には)「忘れられない」ものだろう。だが、それを(能動的に)「忘れない」ということは、もっと強い意味を持っている。
人が暴力という形で抵抗や報復を行うことは、ある意味では、忘れようとしてそうするのだと思う。
それに対して、暴力ではなく信仰や文化を選ぶということは(彼女は、それがイスラエル兵の一番嫌がることだ、と言ってるのだから)、自分(たち)になされた残酷な暴力を決して「忘れない」という気持ちの裏返しでもあるのではないか。
だとすると、それは彼女にとって、もっとも強い抵抗と反撃の表現になっているのではないかと思います。


しかしそのことは、たんに怒りや憎しみの感情を持ち続けるということではなく、むしろそれよりも根底的な抵抗の意志をはらんでいるのではないか。
「忘れない」ということの、もうひとつの意味は(これは彼女は、なおさら意識していないでしょうが)、存在を忘れない、ということではないかと思う。
存在とは、彼女自身の存在でもあり、殺されていった家族の存在でもあり、またイスラエル兵の存在でもあるかもしれない。
非道な暴力の行使は、とりわけイスラエル軍が行ったような、破壊的で退廃的(自己否定的)でさえある暴力というものは、存在を消し去り、存在を永久に忘れ去ろうという欲望に支えられているとも思える。
彼女が「忘れない」こと(信仰や文化を選ぶこと)によって立ち向かおうとしているのは、こうした人々の欲望ではないか?
そういう態度をとることこそ、彼女に対して振るわれた暴力、今も継続する暴力や圧迫に対する、もっとも強い抵抗だと、彼女は心のどこかで感じているのではないか?


そう考えた時、相手がもっとも嫌がることとして信仰や文化を選ぶという、この少女の断固とした(けれども痛切な)言葉が、礫のようなものとして、(「存在を消し去る」欲望にとりつかれた)ぼくたち自身にも向けられているという思いに、とらわれざるを得ないのです。



東京、大阪、名古屋での劇場上映は、すでに終ってしまったのですが、10月1日から、神戸と京都での上映があるそうです。
以下に案内の文章を転載します。

古居みずえドキュメンタリー映画支援の会です。
本日は、未定であった京都シネマの上映時間のお知らせです。

10月1日(土)〜7日(金)京都シネマで「ぼくたちは見た」を
上映します。上映時間は朝10時からです。

京都にお住まいの方、お近くの方是非いらしてください。
10月2日(日)には古居監督の舞台挨拶もあります。

京都シネマ 京都市下京区烏丸通四条下る西側
      COCON烏丸3F
      TEL:075(353)4723
      http://www.kyotocinema.jp/

また
10月1日(土)〜14日(金)11時からは神戸の元町映画館で
上映します。

10月1日には、古居監督の舞台挨拶があります。
また、関連トークイベントとして映画館近くのまちづくり会館にて
「ガザの子どもたちの絵から観るパレスチナの現在」が
13時半からあります。(開場13時)
話し手は、古居監督、志葉玲さん(ジャーナリスト)、増山麗奈さん(画家)の
お3人です。こちらにもどうぞいらしてください。

元町映画館 神戸市中央区元町通り4−1−12
      TEL: 078(366)2636
http://www.motoei.com


   古居みずえドキュメンタリー映画支援の会
   http://suport-miz.thyme.jp/
   FAX 03-3209-8336
   郵便振替口座 00210-3-95264 口座名 古居みずえ映画支援

*1:映画の前半に、攻撃によって徹底的に破壊されたビルの壁に、ヘブライ語で『パレスチナ人にとって悪いことは、我々にとって良いことだ』と書かれている落書きが映し出されるショッキングな場面があるのですが、その言葉との対比を考えてしまいます。