『ビヒモス』その4

ビヒモス―ナチズムの構造と実際 (1963年)

ビヒモス―ナチズムの構造と実際 (1963年)


前回は、ナチスが如何にして労働者階級や中産階級の支持を獲得したかということに関するノイマンの分析を紹介したが、ナチスの権力獲得を真に願望し支えたのは、むしろ支配階級であるというのが、ノイマンの基本的な見方だ。
その支配階級とは、大産業、党、官僚制、それに軍の四グループからなると、ノイマンは言う。ナチス・ドイツの経済構造を分析した第二編では、特にその中の大産業による支配の実態が浮き彫りにされている。


ナチス時代のドイツ経済の特色は、独占経済ということにある。ここでのノイマンの論の要点は、これを産業の国有化を目指すような非(反)資本主義的な経済体制ではなく、あくまで資本主義経済の一形態、市場の強者としての大産業による独占的な支配が貫徹されるための体制と捉えていることだ。
ノイマンは、強者が弱者を食い尽くす競争的自由主義の経済思想を批判して、次のように書く。

経済的自由主義の今日の弁護論者は、契約の自由には、産業結合体の設立、カルテルコンツェルンやトラストの結成の権利が含意されているのだと主張する。(中略)彼らは、競争というものには、競争相手企業を抹殺したり、独占グループの特権を確立する権利が暗に含まれているのだと主張する。(p228)

こうした主張は、古典派の祖アダム・スミスの思想とは、全く相反するものである。
スミスは、競争相手を破滅にまで至らせるような、際限のない競争を許さなかった。そして、「独占」がない状態を、経済の自由の基本的条件としたのである。
だが、今日(ナチス台頭に到る時代)の資本主義は、「自由」という概念をその社会的基盤から切り離して抽象化することによって、そこから大きく逸脱したのだ。

契約の自由や交易の自由という法律的範疇を、その社会・経済的背景から完全に切り離し、そのことによって、法律的範疇を絶対化するのが、資本主義の最近の発展の特徴である。(p229)

ナチスによる「独占経済」の体制は、強者(大企業)に好都合な、こうした新たな「自由主義」経済の貫徹のための一形態だと、ノイマンは断じるのである。

産業支配者による国家の完全な征服は、次のような政治構造、すなわち、下からの規制が全くなく、また自治的な大衆諸団体や、批判の自由などが欠如した政治構造においてのみ成就することができた。所有に対する新たな補助的保証を用いたり命令や行政行為によって政治的自由と経済的自由を抑圧し除去すること、かくて、ドイツの全経済活動を産業保有者達によって運営される産業結合体の網の目に強制的に組み入れること、これこそ、国民社会主義の目的の一つであった。(中略)それは全体主義国家によって編制化された、私的資本主義経済である。(p231)

ノイマンは、これを「全体主義的独占資本主義」と名付け、その諸形態を具体的に分析していく。


それは一面では、能率が悪いとか(体制にとって)信頼できないと見なされた経営者や資本家たち、とりわけ小規模な業者たちを、法の力をもって経済から排除し、プロレタリア化(あるいは奴隷、収容所)へと追いやるというものだった。
ワイマール時代のドイツは、中産階級の自己意識を持った多くの大衆が、現実には貧困にあえぐプロレタリアでしかないという矛盾に苦しむ社会だった。ナチスは、その中産階級の中でも最も貧しい人々に攻撃を集中し、その人たちの財産を奪って大企業や残りの中産階級に分配することによって、この矛盾を解決したのだと、ノイマンは考える。
いわば、経済政策上の「最終解決」である。ユダヤ人などに対する「絶滅政策」だけでなく、経済政策にまでこのような発想が現われていたということは、ナチズムの本質を理解する上で重要ではないかと思う。それはまた、競争的資本主義の本質の理解をも助けるだろう。


そのようにして、国家の権力を後ろ盾として推進されていったのは、強制的なカルテルの拡大である。だがこれは、その他のナチスの経済政策のほとんどに言えるように、ワイマール時代に行われていたことの(より露骨な強制による)発展に他ならないものだった。ナチスの経済政策は、資本主義の一様態なのである。
また、経済の独占化(大企業支配)ということそのものも、そもそもはナチス台頭以前から生じていた技術革新の流れに最大の理由を持っている。それは20世紀では、もはや国家と産業との結びつきなくしては資本が成り立たないというところまで行ったのである。
それならば、企業を国有化するのが必然のようにも思われるが、『しかし、国民社会主義は、そのようなことをかつてしたことがない』ことをノイマンは強調する。
ナチスが行うのは、決して産業の国有化ではなく、古くからの産業の支配者たちへの利益の集中(独占の強化)なのである。
さらにノイマンは、独占化の進行にあたって大きな役割を果たしたものとして、株式会社制度に注目している。
株式会社は、理想としては、株主たちによる民主的な運営を可能にするものとされるが、現実にはそうはならず、必ず権力主義的な構造を帰結すると、ノイマンは見る。

株主は無力化せしめられてしまった。(中略)株主総会は、もはや産業資本家同士の討論ではなくなり、強力な独占グループ間の闘争の場となる。(p250)

これは、民主主義を願望したワイマールの理想主義的な体制が、現実にはナチスを権力の座に押し上げたのと同じ論理であると、彼は考えるのだ。
結局、カルテル化と独占化は、競争の否定ではなく、競争のもう一つの形態に他ならないと、ノイマンは書く。

カルテルは競争を否定するどころか、それを貫徹せしめるのだと、主張してもさしつかえなかろう。(p255)


ここからさらに筆を転じて、ノイマンは「指導経済」と呼ばれるナチスの統制の実情を詳しく論じ、それが実際には大産業による支配を強化するための、資本主義的政策の一種という性格が強いことを立証していく。
例えば、価格統制によって生き残るのは、結局は従来の「自由市場」において強者とされてきた者たちであり、「淘汰」されていくのは市場における弱者たちだった。

現在勝ちまた将来勝つのは、もっとも勇敢な、もっとも残忍な競争者なのである。価格統制は、競争経済に現われるあの淘汰過程を組織化しかつその速度をはやめている。(p275)

まさしく、「国民社会主義」とは名ばかりである。
またノイマンは、ナチスが創設当初から銀行資本・金融資本に攻撃を向けてきたことを、「反資本主義」を標榜するためのまやかしであるとして非難する。このあたりは、金融資本主義の隆盛が言われる今の状況に、そのままでは重ねられないと思うが、重要な分析だと思うので、紹介しておく。

銀行資本と同一視されるような金融資本は、これまでいつも、あらゆる似而非資社会主義運動の、すなわちあえて、すなわちあえて資本主義制度の毒牙をぬき、大衆に搾取に対する深い憤りをある具体的なシンボルの方にそらしてしまう改革をもとめる運動の攻撃目標になってきた。(p280)

こう書いてノイマンは、ナチスが銀行資本を攻撃目標にしたのは、マルクスがその欺瞞性を批判したプルードンの論をパクってるのだという風なことも書いているのだが、これは現代ではむしろ、小泉氏や橋下氏の手法を思い浮かべさせる分析だろう。
攻撃しやすいところ、支配権力の中枢ではないところに、あえて標的を作って、それを派手に攻撃する素振りをして見せて大衆の気を引き、その裏では支配権力に迎合しおもねっていくというという、今日ではお馴染の手口である。
ノイマンは、当時のドイツの状況においては、産業内部の資本蓄積(内部留保)が資本の主な調達源となっており、いわば産業と資本は一体化していて、銀行・金融資本は資本主義の本丸ではなくなっており、ナチスはそのことを熟知した上で、あえて銀行資本を攻撃して、恐慌下で資本主義に反感を抱いていた大衆の感情を惹きつけた、と見ているのである。

銀行資本への戦いは反資本主義ではない。むしろその反対に資本主義であり、しかも実にしばしばファショ的な資本主義なのである。(中略)銀行資本の支配に反対する叫び声が大衆運動の中にもちこまれるときは、いつでも、それはファッシズムが進行していることのもっとも確かなしるしなのである。(p281)

そして実際には、この時代の資本主義の原動力とも言えるのは、企業の「自己金融」であり、銀行資本のみを対象とするナチスの信用統制は、かえって産業の国家機構に対する支配力を高める効果をもたらしていると、ノイマンは見ている。
つまりここでも、大産業と資本主義の論理こそが、真の支配者なのである。


結局、ナチス時代のドイツ経済を動かしている真の動力は何か。それは、資本主義特有のもの、つまり利潤動機以外ではないと、ノイマンは述べている。
だが、ワイマール時代(遡れば帝国時代)以降のドイツが選択してきたような独占経済の体制下にあっては、利潤は、全体主義的政治権力がなければ、『あげることも維持することもできない』。
ここに、ナチス台頭の経済的理由の本質があると、ノイマンは考えているようだ。

要するに、民主主義だったら、この完全に独占化された体制を脅かしたであろう。それを安定させ強化させることこそ、全体主義の本質なのである。(中略)小さな競争相手や中産階級への考慮に妨げられず、銀行の行なう統制からはまぬかれ、労働組合の圧力から解放されている、ドイツの巨大企業の侵略的・帝国主義膨張主義的精神こそが、この経済体制の起動力なのである。(p306)

巨大企業の論理こそが、ナチスのような体制を要請した。だから、この自らの元請け企業とも言うべき巨大企業を、ヒトラーが国有化などするわけがないではないか。


独占的大企業にとっては、民主主義こそ敵である。
民主主義は、政治的不安定をもたらし、それがさらに経済的不安定につながるからだ。また民主主義は、大衆や弱者の権利を認め、収奪や独占を行ないにくくするものだからである。

支配階級は、経済に対する支配権を民主主義に与えることを拒んだ。(中略)だが彼らは全体主義的政体に対してはあらゆる経済的権力を与えることを躊躇しなかった。(p311)

もちろん、しようと思えば国民社会主義は、私的産業を国有化してしまうことは出来たであろう。だがそんなことは、しもしなかったし、しようともしなかった。それはいったいどうしてなのか。帝国主義的膨張にかんしては、国民社会主義と大企業とは同一の利害関係をもっているのである。国民社会主義は、栄光と自らの支配の安定を追求し、産業は、自らの能力の完全利用と外国市場の征服を追求している。ドイツの産業はよろこんで、全く完全なまでに、協力した。それは、民主主義や市民権や労働組合や公開討論を好んだことは、それまで一度もなかった。国民社会主義は産業指導者達の勇気や知識や侵略性を利用し、一方、産業指導者達は大衆を統制し支配しうる技術を完全に発達させていた国民社会主義党の反民主主義や反自由主義や反労働組合主義を利用したのである。官僚制は、いつものように勝利した勢力とあいたずさえて進軍し、ドイツ史上はじめて、軍は、自分の欲しいものをすべて手に入れた。(p311〜312)


(次回へ続く)