『ビヒモス』その5

ビヒモス―ナチズムの構造と実際 (1963年)

ビヒモス―ナチズムの構造と実際 (1963年)


今回は、ナチスドイツの社会形態を分析した第三編について書く。


社会のファシズム化について、それを大衆の欲望や願望に主原因があるものとして捉えるのか、それとも支配権力による大衆操作の結果として見るのかということは、ニワトリが先か卵が先かというような、容易に決められない議論だろうが、ノイマンの立場は後者に力点を置くものである。これは、彼が戦争が終りに近づいてもなお、ドイツの民衆の力によるナチス支配からの解放の可能性を信じていた以上、当然とも言えるだろう。
だがそればかりではなく、ノイマンの政治や社会に対する基本的な捉え方が、これは自身が社会民主党のシンパとして深く関わったワイマール体制への反省から来ている面が大きいと思うが、敵対関係(階級対立)を主軸に置いたものだということが影響しているのだと思う。
彼は、ファシズム(ナチズム)を主に、反動勢力や独占資本による、民衆や弱者に対する攻撃・支配・収奪の一形態として捉えるのである。
ノイマンは、レーデラーという人の、民衆を主体として捉えたファシズム分析を批判して、次のように明言する。

大衆の自発性とか、国民社会主義への大衆の積極的な参与とかいうものは偽瞞であり、民衆の役割は支配グループの道具として役立つことであるにすぎない(p318)

その上でノイマンは、ナチスの社会政策の本質を、社会(諸社会集団)というものを破壊して諸個人をアトム化することによって、支配階級による独裁官僚的な支配を完遂しようとすることに見出している。

国民社会主義がマス的人間を作りだしたのではない。しかし、それはマス的人間を創造する過程を完成し、その妨げになる制度をすべて破壊した。(p318)

従属的な人々を(そしてある程度までは支配者をも)アトム化することによって、国民社会主義は階級関係を消し去ったのではない。全く反対に、敵対関係をより深めより強固にしてしまったのである。(p319)

国民社会主義(ナチズム)は、社会を破壊し、諸個人をアトムすることによって、最終的には社会や合理的制度を媒介とすることなく人々を支配しようとする、運動であり技術である。権力主義や宣伝や暴力(テロ)といったものは、社会構造と社会への信頼を破壊して、人々を不安や思考停止状態に追い込み、アトム化して操作するための方策なのである。
こうしたノイマンによるナチス的手法の素描は、極めて示唆に富むものだと思える。


具体的に挙げられている事例のなかで印象的なのは、労働者や労働組合に対するナチスの支配である。
第一回目の時に触れたことだが、ワイマール体制の時代には、慢性的な失業と独占資本の拡大のもとで、すでに労働組合は衰退していた。組合員は離脱し、急増した婦人労働者や非・半熟練労働者を、組合は惹きつけることが出来なかった。一方でホワイトカラー層は、「中産階級」の幻想にしがみついて、次第にナチスに引き寄せられていった。
そして、労使の協調や、組合と国家との協力関係を重視するワイマールの「多元論的」民主主義のなかで、組合の活動は闘争性を失い、微温化していった。そのことは、ストライキ(特にゼネスト)の件数の激変となって表れていた。
労働組合は、ナチスの政権獲得前にすでに、国家を補完する官僚制的団体に変質していたのである。権力と資本による支配からの抵抗と保護の枠組みを失うことによって、労働者のアトム化は、すでに半ば完成されていたのだ。
こうした傾向は、ナチス支配のもとで更に押し進められていった。
例えばナチスの労働法においては、雇用者と労働者個人との契約概念はすたれ、共同体主義的な(経営者への)奉仕と義務のイデオロギーが主調をなすことになる。

一言にしていえば、労働関係における共同体および指導の理論は、個人的労働契約のもつ合理性の破壊を通じてなされた労働者の権利の完全な剥奪を隠蔽するために、中世的な用語を用いているのである。(p360)

個人の自由と権利に基づいた「契約」から、経営者・資本家への「奉仕」としての労働へという、労働観のアナクロ的な変容が遂行されたのである。
さらに、労働者の孤立化(アトム化)は、「反逆」という概念を強調することによって、刑法によるテロルとも呼ぶべき仕方で推し進められていった。国家の統制と結びついた資本の独占化のなかで、あらゆる企業機密が国家機密と見なされ、それを職場の外部にもらすことは国家反逆罪に相当するとされて、「密告」(漏えい)を準備しただけで死刑に処せられ、無意識の漏えいであっても懲役刑に処せられた。
死と強制収容所の恐怖が、全労働者とその家族を覆い、こうして労働者の孤立化は完璧なものにされたのである。


ナチスの大衆支配の手法の中でも、最もよく知られているものは、宣伝と暴力であろう。
ノイマンは、ナチスの宣伝が、常にテロ(暴力による恐怖)と、司法によるその黙認と一体となっていたことを強調している。
宣伝と暴力(そして、その黙認)とは、ファシストの一体化した主要な武器なのである。
そしてノイマンは、ナチスの宣伝の、民主的な宣伝に対する優位性は、何ら一貫した理論を持たないそのデマゴーグ的な性格に由来することを指摘して、次のように書く。

このような変転自在性は、デモクラシーでは達しえないものである。国民社会主義の文化は宣伝以外のものではないのにたいして、デモクラシーの文化は混合物であるから、国民社会主義の宣伝の方が、いつもよりすぐれている。社会の弱点を絶滅してしまうような高級なデモクラシーの政策による以外は、国民社会主義の宣伝が民主的な高級宣伝によって打ち負かされることはありえない。(p373)

またノイマンは、宣伝によってファシズムに戦いを挑もうとする試みは、不可避的にデモクラシーへの確信の放棄と結びつくであろうことに、注意を促している。大衆を操作の対象としか見ない発想は、すでにファシズムと根を同じくしているのだ。
そして、ナチスによる宣伝の、もう一つの狙いは、宣伝と暴力との氾濫によって恐慌のような心理状況を社会に作りだし、大衆から自分で考える時間や余裕を奪って、大きな集団的な力の幻想に自ら飲み込まれていく魔術的な状態へと人々を追いやるところにあると、指摘するのである。


最後まで行くつもりだったけど、やはり長くなるので、もう一回別に書いて終わりにします。

(次回へ続く)