イスラエル問題と声の排除

29日に、日本ではまた4名の死刑囚に対する刑の執行があったことが伝えられたが、イスラエルが「通常犯罪」に関しては死刑を廃止しており、国際的にも死刑廃止をめぐる議論の場で積極的な役割を果たしていることは、よく知られている。
このことに限らず、イスラエルという国は、その軍事的な外見とは裏腹に、制度の面でも公共空間についても、決して非民主的な国というわけではない。


イスラエルが建国されて間もない頃、アメリカよりもソ連との結びつきが強かった50年代には、この国のキブーツを訪問したソ連の代表団が理想郷のようにその空間を絶賛したことを、ドイッチャーは興味深く書いているが、ソ連型の社会主義にとってというよりも、むしろ強権的な支配に抗して民主的な政治・言論空間の護持を追求するリベラル左翼的な価値観(ぼくはこの言葉を、一概に非難や揶揄の意味で言っているのではない)を持つ人々にとってこそ、イスラエルは強い魅力をもつ国であり続けてきた。
事実、左翼的な運動が今より盛んであった時代には、日本からも、かつての広河隆一氏をはじめ、キブーツの共同体に憧れて渡航する若者が多く居た(今でもいないわけではなく、その共同性に深い感化を受けて帰国し、平和運動に関わる人もある。)。
またアメリカにおいても、共和党イスラエルと強い結びつきを持つようになったのは、民主党政権サウジアラビアへの戦闘機の売却を決めて以後、比較的最近のことであるとされていて、元来イスラエル民主党との方と強固に結びついてきたのである。
また、少なくとも第二次インティファーダの頃までは、イスラエル国内でパレスチナ問題を議論することの方が、アメリカ国内でそれを行うより自由に出来る、とまで言われていた(これには、それは外見上のことに過ぎないという異論もあるが。)。
実際今でも、イスラエルに明確な非難の言葉を向ける先進国の左翼系文化人は、意外なほど少ない。それは、ユダヤ系資本の影響力とか、「ホロコースト」に関わるイデオロギー・情報操作にだけ原因を求めるわけにはいかないと思う。
要するに、イスラエルはリベラル左翼的な価値観(民主主義的と言い換えてもよいが)から見ると、一概に否定することの難しい存在なのである。


そして、民主的な政治体制と言論の場をもったこの国家と社会が、その外見は(内部の人たちにとっても)そのままで、一方では占領を継続させ経済封鎖で多数の人を兵糧攻めにし、大規模な侵攻によって1400人以上の人々を殺してなお自分たちの行為を正当化しているという事実こそ、われわれが確認するべきことである。
すなわち、民主主義的な空間の形成ということが、それだけでは、他者の虐殺や差別の継続をまったく排除しない場合がありうる、という事実についてである。


これは、イスラエルの人たちを説得(教化)するのにどういう方法が有効かなどという傲慢な発想ではなく、われわれ自身がどういう枠組みのなかで民主主義の制度や価値を考えているか、という問題である。
われわれの社会の民主主義の質を変えられなければ、イスラエルの人たちに何かを働きかけるなどということは、本当は出来ないはずなのだ。


イスラエル出身の著名な歴史家、自国のあり方に厳しい批判を向け続けているイラン・パペ氏は、このように述べている。

残念ながら私のような者は、非常に危ない人物だとはみなされないのです。つまり、まったく問題にされないだけなのです。私と同じように考えるイスラエルユダヤ人がいれば、彼は正気でないか、外国のエージェントです。ある人間的価値を信じているからこそ私はこんなことをしているのだ、と自分の社会を納得させることは、近い将来には絶対にできない。(『イラン・パペ、パレスチナを語る』 つげ書房新社 p104〜105)

このような社会は、われわれの知っている社会から、それほど隔たっているわけではないだろう。
その社会で、今回たまたまあらわになったような排除と暴力がまかり通り、殺戮的な軍事力の行使も正当化された。
すると、このような社会において、民主主義とか、公共性とか、言論の自由というふうにいう場合に、そこに根本的に欠けているものはないか、イスラエルにおいては(パレスチナ人の排除という形で)見えやすい、「声の排除」ということが、見えにくい形で社会のあちらこちらや、私たちの内部に行き渡っていないかどうか、自問する必要が生じるだろう。


われわれは、自分たちが排除したり抑圧を押し付けてきた人々が、自分の抑圧された周縁的な位置から声をあげようとしたときに、その声の出し方が民主主義の音調ではない、過激であったり暴力をそそのかすといって、これを排除し、民主主義の擁護の名においてその排除を正当化する、ということがないであろうか。
そうなったとき、声をあげることをこのようにソフトに阻まれた人たちは、そうならずにすむ能力を持つのであれば幸いだが、多くは意思表示の方法の選択肢を決定的に狭められることになるであろう。
このとき、私たちの側こそが、何重にも暴力をふるい続けてきたのだ、ということにはならないであろうか。


「排除される声」ということは、何らかの属性を持つ誰か特定の人の声、ということではない。
声とは、もともと複数的なものであろう。
抑圧のゆえに音調が乱れていたり、切っ先が鋭かったりするその他人の声とは、私の、またあなた自身の声のひとつであるかも知れない。
その声の複数性を押し殺して、たんに数値化可能な単位として生きる。そのことによって確保されるような民主主義と安定、そして社会の平和(安寧)が、本当に私を(あなたを)、また「声」の全ての持ち主たちを、幸福にすることがありうると、考えられるだろうか?