キケロー『弁論家について』

おととしの正月は、『朱子伝』(三浦國雄著)を読んでいた。去年の正月には、ソフォクレスの戯曲を読んでいたはずだが、今年たまたま読んでいるのはキケローの『弁論家について』である。

弁論家について〈上〉 (岩波文庫)

弁論家について〈上〉 (岩波文庫)

読んでみると、なるほど凄い本だと思う。
朱子関連の本や蘇東坡の伝記(林語堂著)などを読んでても感じることだが、「深遠」とされる思想と、人々の感情、情動(パトス)に訴えかけて揺り動かす表層的な「弁論」の(燎原を焼き尽くす炎のような)力との二つが、すっかり分離されてはいなかった社会・文化における、言葉の力が生々しく伝わってくる。
そこでは、思想として語られる言葉は、直接社会を動かすものであるかのようである。
中村雄二郎の『悪の哲学ノート』によれば、シオランは、「悪」を「善」よりも、自己を伝達しようとする熱心さと能力がはるかに優るものであると捉え、その感染力の絶大さを特質として強調しているとのことだが、『弁論家について』で焦点が合わされているのは、まさにそういう、人間の心の「悪」に感応する部分、パトスの部分に思想の力がいかに働きかけるかというテーマだと言えるだろう。

なぜなら、弁論家の真骨頂が人々の心をあるいは怒りへ、あるいは憎しみへ、あるいは義憤へと駆り立て、また、逆に、そうした激しい感情から穏和な感情や憐憫の感情へと引き戻すことにあることを知らない者など、まずいないだろうからだ。人間の本性や人間性の全体像に対して、そしてまた、人間の精神があるいは扇動され、あるいは鎮静させられる諸々の原因に対して透徹した目をもっているのでなければ、弁論家といえども、望みの目的を言論によって達成することはできないのである。(上巻 p39)

しかし、いま言ったような点に関しては、クラッスス、君の訴訟での扱いを目の当たりにするとき、わたしは、嘘偽りなく、鳥肌たって身震いするのである。それほどの精神力が、それほどの激しさが、それほどの痛憤が、君の目に、君の表情に、君の動作に、要するに、君のその指先にほとばしり出ているのが君の弁論の常なのである。重厚この上なく、適切この上ない滔々としたその言葉の流れ、そして、混じりけがなく、真実を衝き、斬新で、稚拙な虚飾や潤色を排したその思想は、じつに見事なものであって、わたしには君は単に陪審員の心に火をつけるばかりか、君自身が炎と燃え上がっているとさえ思われるのだ。
 ところで、聴く者の心を誘導して義憤や悲しみへ、あるいは何かへの恐れや涙や憐憫へと導こうとしても、弁論家が陪審員に吹き込みたいと思うそうした感情がすべて弁論家自身の心に刻みつけられ、焼き付けられているという印象を与えないかぎり、それを実現するのは不可能なことである。(上巻 p283)


だが、この本を読んでたいへん驚いたことなのだが、中心人物であるクラッススやアントーニウスをはじめ、ここに登場する人たちは皆、この対話が行われて間もないうちに、政変や戦乱、それに続く粛清の嵐のなかで、命を失うか放逐されてしまう。クラッススはこの数日後に、政敵に対する議会での猛演説がもとで憤死に近いような死に方をしたそうであるし、その好敵手でもあったアントーニウスも、やがて晒し首になれるような無残な最期を遂げたようだ。
のみならず、それらのことを書き手のキケローは、本の半ばで長々と叙述しているのである。
とするとこの本は、ここに語られている弁論やレトリックの奥義のようなものを学び知り、実践していれば、独裁や戦争を防ぐことが出来るのだという趣旨によって書かれた本ではない、ということになるだろう。
むしろ事実だけを辿れば、彼らの見事な弁論が、逆に大きな悲劇を社会全体にもたらすことになった可能性さえ考えてみたくなるほどだ。


ここで語られているのは、今日考えられる民主制とは違ったものをめぐるものであるとはいえ、われわれの社会の民主主義に実質を与えるために重要なヒントになる事柄だと思う。
だがそれが、良い結果をもたらすか、悪い結果をもたらすかは、必ずしも定かではないのだ。
第一、キケローやアントーニウスが、こうした卓越した言論の力によって実際に参画していた政治がいかなるものだったか、評価はさまざまだろう。
この本のなかにも、「徳」はそれ自体の価値ゆえに追い求められるべきか、それともそれがもたらす果実ゆえに追い求められるべきか、という問いが語られる箇所があるが(下巻p181)、すぐれた弁論(という徳)が、必ず良き果実をもたらすという保証はなく、むしろその逆のことも十分ありうる、ということではないか。
「よい弁論」と「よくない弁論」との区別が、それほど明確に出来るものではないということも、この本から得られる大事な教訓の一つではないかと思う。


それでも、われわれはわれわれの心の中にある「悪」を正確に見つめながら、われわれの信じるところの思想を人々の中に実質化するための重要な教えの一つとして、それが大きな危険をはらんでいるかも知れないことを自覚しつつ、このキケローの古典を熟読する必要があるのだと思う。