『弁論家について』その2

昨日、中村雄二郎著『悪の哲学ノート』のなかで、「悪」を、「善」よりも自己を伝達しようとする意欲と能力に勝るものとして捉えるシオランの考え方に言及されていることを書いたが、これは大変示唆に富むと思える言い分なので、中村の同書(p48)からの孫引きになるが、以下にシオランの文章を引用する。

臆病で活動力を欠いている善は、自己を他に伝達するのに向いていない。善よりはるかに熱心な悪は、自己を伝達せんと欲し、そして伝達することができる。それというのも、悪には、他を魅惑すると同時に他に感染するという二重の特権があるからである。・・・・自己自身の内部に留まることができぬというこの不可能性、創造者が遺憾きわまりない例証を示さねばならなかったこの不可能性を、私たち人間はみないずれも受け継いでいる。


善は、その「臆病」さのあまり自分のなかに閉じこもってしまい、他者に自己を伝達しようとする意欲や能力に欠けている。伝達の意欲と権能を持つのは、むしろ悪なのであり、しかもこの悪という力(魅力と伝達力)に溢れたものを、われわれ人間はみな自分の中に持ってしまっている。
シオランが言ってるのは、そういうことであろう。
善が、臆病であり、自分の中に閉じこもってしまうのは、伝達しようとすることによって、外部の悪に感染し、自らの純粋性が汚されることを怖れるからだろう。
だが逆に、自分の純粋さにそれほどまでに固執し、悪への感染の恐怖から、一切の外部を排斥しようとするところに、最悪の暴力性が潜んではいないであろうか?
これは、デリダも(ヘーゲルの影響下に、特にフーコーに抗して)提示した重要な論点だったはずだ。
そこでは、伝達を可能にする外部とは、端的に言語のことである。われわれの自己は、はじめから言語に媒介されているのだから、そして言語に内在するさまざまな(悪しき)情動に媒介されて生じたものでもあるのだから、われわれの自己は既にして悪によって汚染されているのであり、汚染されたからこそ自己は生じたのである。
われわれは最初から言語(によって悪)に汚染された存在なのであり、それを踏まえて、他人に向かって何をなしうるかということが全てのはずだ。


デリダが、このような立場に立った背景には、いわゆる宗教的原理主義(特にキリスト教のそれが問題だが)と、それに関連した多文化主義の隆盛ということがあったはずである。
この二つは、一見相反する立場のようで居て、対話(弁証法)に重きを置かない態度という点では似ている。
自分の考えを言語化して表明したとき、それは言語化すること自体によって汚染されてしまうので、決して純粋な表明とはなりえない。つまり、必ず誤解されるし、また意図に反した暴力性を帯びざるを得ない。それゆえに沈黙する。
こうした態度のうちにこそ、最大の社会的暴力に加担してしまうことの根があると、デリダは直観したのであろう。


弁論の力を何か外部的で本質的でないものとして退け、思想や想念の内面的な真理に閉じこもろうとする態度によっては、結局は、言語という始原的な外部による侵食を斥けることは出来ないであろう。
そもそもこの外部こそ、われわれの内面を生み出した当のものなのだから。
われわれもまた、そもそもの初めからこの外部にまつわる要素(パトス)を分有している以上は、言語による外からの働きかけに影響され、扇動されたり操作されたりしないわけにいかないのが、人間という存在である。
弁論への参加ということ、言い換えれば、自ら「悪でありうること」や「汚染されうること」を引き受けるという態度は、その扇動や操作に対して、反抗の端緒を開くということでもある。
われわれは、外部の力に回収されないために、あえて言語(弁論)という「悪の道」に足を踏み入れ、そのことでこそ他者と共に生きることを選び取るのである。


しかし、情動(パトス)に対して自己を開くということは、もちろん容易ではない。
それは、自己の安定というものを手放すことを意味する。誰でも、純粋さのなかに閉じこもっていたいに決まっている。
レトリックが外部的なものと見なされて軽視される傾向があるのは、人々のそういう(ブルジョア的な)心理を反映したものと言えるだろう。情動の渦巻く対話の場の中に自分の思想が(言論として)投げ出されることで、純粋な自分の安定性が突き崩され、「悪でありうること」という可能態としての自分に向き合うことになるのが怖いのである。
そこで、ある場合には、この「悪である」自分や自分たちを、かえって現実態のように考えて開き直ってしまい、そういう形で安定にしがみつこうとする傾向も生じてくるであろう。これが、普通排外主義と呼ばれるものに近いあり方だと思う。


キケローの『弁論家について』が示しているのは、この「悪でありうること」(「汚染されうること」)という可能態としての自分に向き合い続けるための方途だと思う。
それは見方を変えれば、群衆のなかの存在としての自分、社会に開かれた自己のあり方というものを守り抜く、という道でもある。社会という全体、あるいは一般的なものに、すっかり自己を譲渡することではない。むしろ、社会との連関をすっかり断ち切って存在しうるという、社会そのものによって仕組まれた幻想から、自己の真の可能態を守り抜こうとする意志が、ここに示されているのである。




さて、肝心の『弁論家について』から、一箇所だけ取り上げて紹介しよう。
この岩波文庫版の上巻の終わりの方では、弁論のトポス(場所)ということをめぐって議論が展開されている。

・・・その言葉のすべてに憎悪と反感と憐憫の情(のトポス)を織り込むあなたのあの弁論といったら。何もこれはノルバーヌスの弁護のときに限っていたわけではなく、スカウルスやその他のわたしの証人に相対するときも同様で、あなたはその証言を、反証を挙げることによってではなく、民衆の抱いたその同じ情動に救いを求めることによって駁されたのでした。(p296)


トポスとは、民衆の「情動」がそこに集中して渦巻いているような場所のことであろうが、これはある主張を行う拠り所となるだけでなく、それとまったく対立する立場の主張を展開し人々の心を扇動するための拠り所となる力をも秘めている、というのである。


昨年は、体制側、権力側の言論が、「差別」や「不公正」という言葉を持ち出して、自分たちの反動的な主張を展開し、世論の場で勝利するという出来事が相次いだ。
例えば、片山さつき等による「生活保護」バッシング(働く者と働かずに暮らしている者との「不公正さ」の強調)、橋下による週刊朝日の記事の人権侵害(差別性)に対する非難、また瓦礫受入れ反対運動に対する「被災(被曝)地差別」を論拠とした非難、などである。
そこでは、差別的な社会の継続を図っている側の勢力による、「差別」や「不公正さ」や「人権侵害」という言葉の先制攻撃的な使用が、目立っていたのである。
だがそのことが示しているのは、「差別」や「不公正さ」や「人権侵害」という事柄が、もはや覆い隠すことのできない情動のトポス(場所)として、民衆の心の中に存在してしまっているという現状だろう。
権力を持つ側は、それを熟知しているからこそ、このトポスに目をつけ、それを先行的に利用しているのである。つまり、そこにこそ彼らが最も危機感を抱いているということを、ここから窺い知ることが出来るのだ。
彼らが言論上の攻撃のために使用してくる武器にこそ、彼ら自身が最も恐れているもの、彼らのアキレス腱が示されている。言い換えれば、現在の民衆の情動(可能態)の中心的な在り処が明かされているのである。


弁論家について〈上〉 (岩波文庫)

弁論家について〈上〉 (岩波文庫)

悪の哲学ノート

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